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6 月下の影

ちょっとだけ、のつもりだったのです。

ほんの少し、確かめるだけの――はずでした。


 反古紙の中を探して、古い料理番付をさらに二枚見つけた。四枚全部並べてみる。

 いろいろな店の名前が載ってはいるが、だいたいのところは同じ店だし、位も多少の上下はあっても、それほど大きな動きはない。だが、一軒だけ……。


「『浅葱(あさぎ)屋』という店……」


 この「浅葱屋」という店だけ、動きがおかしかった。

 古いものから順に見ていくと、最初は前頭の三番目くらい。それから、小結に上がり、三ヶ月前にはついに最上位である「大関」となっている。

 これは不思議はない。「浅葱屋」の努力の結果だろう。

 だが、春太にもらった最新版には、『浅葱屋』の名前が見当たらない。


「店じまいしたのかしら?」


 そう思ったが、よく目を凝らしてみると、あったのだ――「浅葱屋」の名前が。

 大関どころか、関脇でも小結でもない。前頭も、下から数えた方が速いくらいの位置に。そのあたりになると、とても小さな字になってしまうので、目を凝らさないと見つからないのだ。

 つまり、三ヶ月で大きく位が変わったと春太が言っていたのは、この「浅葱屋」だったのだろう。


 名前が残っているから、店じまいではない。

 店の主が変わったとか、食あたりを出した、あるいは小火を出した、とかなら、位が急に落ちても誰も不思議に思わないはず。

 そもそも、そんな騒ぎがあれば、街の噂で水絵の耳にも入るはずだ。

 何も起きていないのに、位落ちしている。


「どうして? 誰かのせい?」


 水絵が首をかしげた――その時。


「まだ、帰ってなかったのか」


 不意に声をかけられて、水絵は文字通り飛び上がった。


「鏡之介さん……」


 早鐘のように鳴っている胸を思わず押さえる。

 そんな水絵にお構いなしに、鏡之介は肩越しに四枚の番付をのぞき込む。


「料理番付がどうかしたのか?」


「帰ったんじゃなかったんですか?」


「そのつもりだったが、祐光先生に挨拶に行ったら、ついつい話し込んじまってな……」


 帰ろうとしたら水絵の姿が見えたから、声をかけたのだという。


「ずいぶん片付けに手間取ってるじゃねえか」


 そんなはずはないのに、千代の家を訪れていたことを見透かされているような気がする。

 話題を変えようと、水絵は四枚の番付を鏡之介に突きつけた。


「こっちの新しい番付、すごく売れたんだそうです。どうしてだかわかります?」


 水絵は、早口で春太から番付をもらったいきさつを話す。

 鏡之介は、それをにやにや笑いながら聞いている。水絵が意識的に話題を変えたことに気づいているのは明らかだったが、それを追求するつもりはないようだった。


「俺に聞くまでもなく、水絵はもう気づいているんだろう? 話してみろよ」


 さらに見透かされたようなことを言われ、ちょっとむっとしたが、それより考えを披露したい気持ちが勝った。


「だから、分からないんですよ、いきなり位落ちした理由が」


 自分の考えたことを言ってから、そんなふうに話をまとめた。


「確かに、水絵の考えは正しいな。しかも、今度は、遠回りせずに、一番の近道で考えてるじゃねぇか」


 初対面の時の「遠回り」を引き合いに出され、水絵は再びむっとした。だが、あからさまに不機嫌な顔をすると「河豚みたいに膨れるな」と言われそうなので、平静を繕った。

 すると、鏡之介は、からかう口調で言った。


「気になるんなら、調べてみればいい。『浅葱屋』まで行って」


「そんな暇ありませんよ。千代ちゃんのこともあるし」


 思わず言い返してしまってから、しまったと唇を噛む。


「千代がどうかしたのか?」


 笑いをこらえているような口調だった。鏡之介がどこまで気づいているのか、水絵にはまったくわからないが、これ以上話を続けるのは危ない……と思った。


「なんでもないですっ! じゃ、わたし、帰りますね。暗くなると物騒ですからっ!」


 水絵は、ばたばたと帰り支度をして寺子屋をあとにしたが、長屋に向かって走る間ずっと、耳元で鏡之介のくすくす笑いが聞こえているような気がした。


 その日の夜――。


 小太りの若い男が、千代の家の前にある屋台を担いで歩き始めた。千代が、兄の花吉だと思っている男だ。

 男は、屋台を担いでいるとは思えない軽い足取りで、眞性寺の前を通過していく。その少し後を、水絵は歩いていた。

 長屋のみんなが寝静まったあとも、水絵は眠らずに、千代の家の前に置いてある屋台を見張っていた。そして、男が屋台を担いで歩き出すのを確かめると、こっそりとその跡をつけてきたのだ。


 男は花吉ではない……それは確かなことだ。ならば何者なのか? 水絵はどうしてもそれを突き止めたかった。その理由は「千代のため」といっているが、それが言い訳であることに、水絵自身も気づいていた。おそらくは、「袖切り冬三」から譲り受けた岡っ引きの血。そして、「寝た子を起こした」鏡之介に対する意地のようなものだと。


 だから、誰にも言わずに、家を抜け出したのだ。

 幸いにして、今夜は満月だった。灯りを持たなくとも、男の姿を見失うことはなかった。

 男は迷いのない足取りで歩いている。行き先は、おそらく板橋宿だろうと水絵は考えた。

 眞性寺の前にさしかかった時だった。背後に人の気配を感じ振り向こうとした瞬間、


「っ!」


 凄い力で羽交い締めにされた。


「騒ぐんじゃねぇ」


 酒臭い息が耳にふきかかった。その嫌悪感に身を震わせた時、目の前にきらりとなにかが光った。月光を受けて光るそれが、合口であることはすぐにわかった。

 水絵は冷静になろうと頭を巡らす。単なる物取りか、あるいは若い女と見て手籠めにしようとしているのか……。だが、どちらでもなかった。


「飛鳥山じゃあ、兄貴が世話になったな」


 飛鳥山で水絵が袖切りをした巾着切りの仲間だった。


「落とし前、つけさせてもらうぜ。へへっ。よく見りゃあ、けっこういい女じゃねぇか」


 どうやったらこの場を脱せるか、必死に考えるが、いっこうに手立てが見つからない。両腕を羽交い締めにされて、今は身動きも取れない。好機があるとすれば、手籠めにしようとする刹那か。かなり酔っているようだから、隙を見つけられるかもしれない。

 水絵がそんな風に頭を巡らせていることとは思いも寄らないのか、男は楽しげに続ける。


「たっぷり楽しませてもらってから、兄貴の仇を……うっ!」


 不意にことばが途切れ、男の身体から力が抜ける。その瞬間、水絵は男の腕の中から抜け出した。


「だ、誰だ、てめぇ!」


 よろめきながら振り返った男が、裏返った声で叫ぶ。


 その背後、月光に浮かび上がったのは、仁王立ちする男の影。


「俺の女に手を出すなんざ、百年早い」


 低く笑う声には、聞き覚えがあった。


止めないけれど、放っておかない。

それが、今のふたりの距離です。

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