7 百年早い
今回、水絵はちょっと無茶をします。
そんな彼女を見守る男が、ひとり。
鏡之介の姿を認めた途端、水絵は足に力が入らなくなり、その場にへなへなと座り込んでしまった。そして、自分の頬が涙で濡れているのと身体が細かく震えているのに、はじめて気づいた。
「はあ!? てめぇ、なに言ってやがる」
男が合口を振り回して、鏡之介に斬りかかる。鏡之介がそれをひらり、とかわしたのは水絵にも見えた。
そして、次に水絵が鏡之介を見た時には、男の合口は鏡之介の手の中にあった。いつの間に奪ったのか、水絵にも見えなかったし、奪われた男にもわからなかったらしい。自分の空っぽの手を見て戸惑っている。
鏡之介は合口をくるりと返すと、柄で男の鳩尾を突いた。
「ぐはっ!」
男は、うめき声ともに地面に崩れ落ちた。
「鏡之介さん……」
ようやく声が出せるようになった水絵が呼びかけると、鏡之介はいつにない真面目な顔で駆け寄ってくる。
「無事か?」
問われてうなずく。と、同時に、何故鏡之介がここにいるのか合点がいかない。それが表情に表れていたのか、鏡之介は不機嫌そうな表情のまま言った。
「おまえがなにか企んでるのは見え見えだったぜ」
「もしかして、わたしの跡をつけたんですか?」
つまり、千代が花吉と思っている男の跡を水絵がつけ、その水絵の跡を巾着切りの仲間がつけ、さらにその跡を鏡之介が……頭に浮かんだその図のあまりの間抜けさに思わず吹き出しそうになる。笑いをこらえる水絵を見て、だが、鏡之介は、不機嫌な顔を崩さなかった。
「まったく。岡っ引きのまねごとも大概にしろって、祐光先生にも言われていただろう」
確かに、鏡之介が来てくれなかったら大変なことになっていただろう。
「ごめんなさい。……いえ、助けていただいて、ありがとうございました」
地面に座り直し、きっちりと頭を下げる。
すると、鏡之介は、みょうに狼狽えた表情を見せた。
「分かりゃあ、いいんだ」
不機嫌そうなのは変わらなかったが、その言い方には温かみがあった。ほら……と手を出されて、立ち上がる。
「千代ちゃんのことが心配だったんです」
言い訳ではなく、いきさつを話すために言った。
「だからって、ひとりでなんとかしようなんて考えんな。俺か……俺がいやなら、祐光先生に相談するべきだったな」
「もうちょっと調べてみてからって思ったんですけど……軽はずみでした。鏡之介さんが来てくれなかったら……」
命も危なかった…と言葉を続けようとして、不意に、現れた時の鏡之介の言葉を思い出した。
『俺の女に手を出すなんざ、百年早い』
思い出すなり、落ち着いていたはずの胸の鼓動がまた早くなる。それを隠すために、水絵は、わざと軽い口調で言った。
「あれは言いすぎじゃないんですか」
「何のことだ?」
地面に転がっている男を指す。
「こいつに……言ったじゃないですか。その……わたしが……俺の……」
『女』という言葉は、どうしてもいえなかった。そんな水絵のためらいを吹き飛ばすように、鏡之介はあっさりとその言葉を口にした。
「ああ、俺の女って言ったことか」
「誰が俺の女ですか!!」
「この場にいる女は、おまえだけだろ?」
さらっと言われて、次の言葉が出てこない。
「……」
無言で睨んだら、鏡之介はははっと笑った。
「ちょっとした勢いだ。気にすんな」
「気にします! 変な噂が立ったらいやだし」
ありがたく思う気持ちが薄れたわけではないが、もうしおらしくはしていられない。そして、鏡之介も、いつもの軽口でそれに答えた。
「そんな噂、立ちゃしねぇよ。こんな巾着切りの言うこと、誰も真に受けねぇさ。さて。とりあえず、こいつをふん縛るとするか。こいつの帯じゃあ……ちっと短ぇか……」
縛り上げる縄になるものを捜しているのだと気づき、水絵は袂から捕り縄を取り出した。
「これ、使ってください」
差し出された捕り縄に、さすがの鏡之介も驚きを隠せなかった。
「どうしたんだ、こんなもの」
「祖父ちゃんの形見です」
もちろん、いつも持っているわけではない。今日は、岡っ引きまねごとをするから、お守り代わりに持ってきていたのだ。そう言うと、鏡之介はため息をついた。
「本当に、岡っ引きにあこがれてんだな……」
と、鏡之介は言うが、ちょっと違うと水絵は思った。あこがれているのは『岡っ引き』ではなく『袖切り冬三』。――祖父だ。だが、それは言わなかった。そのわずかな違いを、うまく語れる気がしなかった。
水絵も手伝って、男を縛り上げる。一度気づきそうになったが、鏡之介が鳩尾に拳を入れると、再び気を失った。気づいても逃げ出せないように、山門に括り付ける。
あとで、春太にでも知らせて、しょっ引いてもらえばいいだろう。
ほっとすると、屋台を借りていった男のことを思い出した。
「いけない! あの人、見失っちゃった!」
「心配ねぇよ。あいつの向かった先は、おそらく板橋宿だ」
しばらくは商売してるだろうから、今からでも充分間に合う、と言われ、なにもかも見透かされていることに、水絵は少しだけ悔しさをおぼえる。だから、わざと不満そうに言ってみた。
「鏡之介さんも行くんですか?」
「当たり前だろう。水絵を危ない目に遭わせるわけにゃあ、いかねぇ。なんたって、おまえは俺の……」
続く言葉を言わせないために、水絵は鏡之介の足を思いっきり踏んづけた。
「いってー!!」
痛さに飛び上がる鏡之介に、水絵は少しだけ溜飲を下げた。と同時に、あの男にもこうすればよかったのか、と、遅ればせながら思いついたが……。
『まだまだ修行が足りないな……』
と心の中で、反省もした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回は板橋宿。
屋台の男の正体と、「浅葱屋」の謎に迫ります。




