魔素というもの
学院へ通い始めてからというもの、一日の時間が以前よりずっと短く感じるようになっていた。
朝は古物屋で働く。昼には学院へ向かい、資料室へ籠もる。夕方から夜にかけては研究棟へ呼ばれることもあり、帰宅――と言っていいのかわからないが、物置部屋へ戻る頃には身体が少し重かった。
それでも、不思議と嫌ではない。暇な時間ほど余計なことを考える。
帰れるのか、戻れないのか、地球は今どうなっているのか。
家族は、会社は。
自分が突然消えたことを、どんなふうに受け止めているのか、考え始めると際限がない。
だから、忙しいくらいが丁度よかった。少なくとも、立ち止まって絶望する暇が減る。人間は案外、忙しさだけでも心を誤魔化せるらしい。
*****
資料室へ通う頻度は、日に日に増えていた。
高い天井まで続く本棚にも少しずつ慣れ、どの棚に基礎理論があり、どこに歴史資料が置かれているかも把握し始めている。
最初はただ圧倒されていた。知らない世界の知識が、文字通り壁のように積み上がっている。
だが数日も通う頃には、その感覚が少し変わった。
研究室に近い、そう思うようになった。違う世界の本ではある。
それでも、知識を整理し、理論を積み重ね、例外を検証する姿勢そのものは驚くほど似ていた。魔法という言葉のせいで神秘的に見えるだけで、本質は案外現実的なのかもしれない。
少なくとも、資料を読む限りではそうだった。
魔素
この世界の根幹にあるらしい未知の存在。目には見えないが、大気中へ常に満ちており、人や生物はそれを自然と取り込んでいるという。呼吸に近い。
ただし空気ほど単純ではなく、濃度差があり、地域差があり、消耗や循環まで存在する。さらに、それを術式によって加工し、火や熱、浮遊や照明といった現象へ変換している。
言葉を置き換えれば、未知のエネルギー工学だった。だからこそ、余計に気になる。
なぜ自分だけ完全な無反応なのか?適性差という説明では足りない。
弱いならわかる、不得手でもわかる。
だが、測定器具が完全に沈黙するほどのゼロというのは極端すぎた。極端な現象には、大抵理由がある。
そして理由のない例外は、工学では一番危険だった。前提そのものを壊すからだ。
*****
そんなことを考えながら頁をめくっていると、机の上へ音もなく紙束が置かれた。
最近では、少し足音だけでわかるようになってきていた。急ぎ足なのに妙に静かで、目的がある時ほど一直線に近づいてくる。
「また難しい顔」
少し覗き込むように言われ、苦笑する。
「考え事です」
「帰る方法?」
少し考え、首を振った。
「今日は違います。魔法の方です」
視線が本へ落ちる。
「まだ諦めてない?」
「使えない理由が気になるので」
その答えに、小さく息を吐かれた。呆れているのか、感心しているのか少しわからない。
「普通、落ち込む」
「落ち込んでも使えるようにはならないので」
言いながら、自分でも少し可笑しくなる。昔からこうだった。問題が起きるほど、感情より対策を探し始める。性格というより職業病なのかもしれない。
故障した設備を前に、まず原因を探す人間は案外感情の置き場を失う。
「変」
最近の決まり文句だった。
「よく言われます」
そう返すと、少しだけ笑われた。最初の頃に比べると、距離はだいぶ縮まった気がする。
言葉は少ない。ただ、放っておけないらしい。何だかんだ世話を焼いてくれる。
異世界へ来て最初に知り合った人間の一人としては、ありがたい存在だった。
*****
夕方、研究棟へ呼ばれる。
主任の部屋へ入ると、何やら机の上がいつもより散らかっていた。
分解された魔導具、透明な鉱石、術式の刻まれた金属板。
そして、例の壊れた魔導具。
あの火花以来、明らかに扱いが変わっていた。
研究対象。そんな空気を感じる。
悪意ではない。だが、好奇心がかなり強い。
地球でも何度か経験がある。研究者は、説明不能な現象ほど好きなのだ。
「君、もう一度これに触れてくれ」
指差されたのは、壊れた魔導具だった。少し嫌な予感がする。
再現実験ほど長引くものはない。だが断る理由もない。
指先で軽く触れる。
沈黙。何も起きない。
もう一度。さらに試す。
変化なし。
部屋の空気が少しずつ重くなっていく。期待していた分だけ、落胆もあるのだろう。
「偶然か……」
誰かが小さく呟く。その時だった。
何気なく術式の刻印へ触れた瞬間、小さな火花が再び弾けた。
ぱち、と。
前回と同じ青白い光。 ただ、今度は少しだけ長い。ほんの一瞬だが、術式が淡く明滅した。
静まり返る室内。
誰もすぐには喋らない。その沈黙が逆に怖かった。
主任だけが、じっと魔導具を見ている。そして、低く呟いた。
「……君、本当に“使えない”のか?」
問いというより独り言に近かった。その声には、困惑より興奮が混じっている。
何かが理論から外れ始めている。そういう顔だった。 そして、その時ふと思う。もし自分だけ違うなら。それは欠陥ではなく、別系統なのかもしれない。
そんな考えが、初めて頭の中へ形を持ち始めていた。




