星を越える方法
帰れないかもしれない。その可能性を、ようやく言葉として受け入れ始めてから、不思議と視界が少し変わった気がしていた。
何かが解決したわけではない。空の帯は広がり続けているし、魔素流量低下も止まらない。王都では節約運用が半ば常態化し、北方都市では冬越え準備が前倒しされ始めている。学院市でも、魔法だけへ依存しない設備改善が当たり前になりつつあった。
世界は確実に変化の途中にある。ただ、その変化を「終わり」とだけ見る人間ばかりではなくなってきていた。
工房街では熱保持構造の改良が進み、荷車には簡易機械補助が増え始めている。市場では保存構造を工夫した店舗が安定して利益を出し始め、「魔法無しでも少し持つ」という考え方そのものが広がりつつあった。人間というものは案外現実的で、危機が長引くほど絶望より工夫へ向かう。
その変化を見ていると、最近ひとつ気になることが増えていた。
――もし帰る方法があるなら、それは何なのか。
最初の頃は、生き残ることしか考えられなかった。食事、寝床、仕事。異世界という非現実の中で、とにかく今日を越える方が先だった。次に魔法を理解しようとした。使えないなら理屈を知るしかないと思ったからだ。そして今、空の異変へ関わる中で、ようやく別の問いへ戻ってきている。
自分は、どうやってここへ来たのか。
そして、戻れるのか。
学院の観測塔へ向かう途中、自然と夜空を見上げる。帯はもう隠せないほど広がっていた。以前は「何となく違和感」だったものが、今では誰の目にも少し異様だ。星の光が薄く見える場所、揺らぐような輪郭。街の人間も最近では普通に話題へ出すようになっている。
天災、神罰、空の病。
呼び方は様々だ。ただ、誰も本当の理由を知らない。
観測塔へ上がると、紺色の外套が既に居た。最近では、ここで会う方が自然になっている。
「遅い」
「考え事です」
「また難しいやつ」
少し笑ってしまう。
否定できない、最近は考えることが増えすぎている。観測記録を整理しながら、不意に聞いてみる。
「この世界って、昔から空の研究あります?」
「天文学?」
「それもですけど、もっと……外側」
言葉を探しながら空を指す。
星の向こう、別世界、空間そのもの。
元の世界なら宇宙論や高次元理論に近い。
紺色の外套は少し考えてから、小さく首を傾げた。
「昔話ならある」
そして保管棟の古い文献に、“星渡り”という概念が残っていることを話し始める。
空の裂け目、異界渡り、別世界から来た旅人。
神話に近い話ばかりだ。研究対象というより、ほとんど伝承扱いらしい。学院でも真面目に研究する人間は少なく、歴史資料の隅へ押し込まれている。
ただ、不思議と笑えなかった。異世界へ実際に来ている以上、最初から否定できない。
元の世界でもそうだった。荒唐無稽な理論ほど、最初は誰も信じない。ただ、現象が存在する以上、説明は必要になる。
もし本当に世界を越える現象があるなら。
もし自分が偶然ここへ来たのでないなら。
帰る方法もまた、理論として存在する可能性がある。
ただ同時に、嫌な現実も見えていた。今の状況で、それを最優先にしていいのか。
目の前では世界が弱り始めている。工房街は変化し、人々は適応を始めている。知識を持っている自分が、帰ることだけを考えるのは少し違う気もしていた。
結局、答えはすぐには出なかった。
ただ、ひとつだけ整理できたことがある。帰る方法を探すことと、この世界で生きることは、多分両立する。どちらかを捨てる話ではない。
帰る可能性を諦めず、それでも目の前の世界を放り出さない。
元の世界でも、研究とはそういうものだった。結果が出る保証はなくても、今できることを積み上げるしかない。
観測塔の窓から見える街灯は、相変わらず少し弱い。それでも消えてはいない。工夫しながら、支えながら、何とか明日へ繋がっている。
もしかすると、自分が探すべき“星を越える方法”も、劇的な奇跡ではなく、こういう地道な積み重ねの先にあるのかもしれなかった。




