使えない男
物置として貸し与えられた部屋は、想像していたよりもずっとまともだった。
店の裏手にある倉庫の二階で、壁は荒い木板のまま、窓も小さい。決して快適とは言えないが、風雨を防ぐ程度の造りにはなっており、隅には藁を詰めた寝具まで置かれている。積み上がった木箱が空間の半分ほどを占領していたものの、少なくとも人が眠る場所としての体裁は整っていた。
草原で野宿する可能性まで考えていた身からすれば、ありがたいと言っていい。
もっとも、身体が休まるかは別問題だった。
藁の寝具は思った以上に硬く、寝返りを打つたび微かな軋みが鳴る。慣れない匂いもある。乾いた草と古い木材、それから埃の混ざった空気は、決して嫌ではないが落ち着くとも言い難かった。
結局、しばらくして起き上がる。
眠れない理由は寝具だけではなかった。今日一日で起きたことが、あまりにも現実離れしていたのである。
仕事帰りだったはずなのに、気づけば草原へ立っていた。聞いたこともない街へ入り、見知らぬ通貨制度と門番に怯え、商人らしい男と交渉までしている。そして何より、宙に浮くスプーンを目の前で見た。
魔法
言葉にすれば軽いが、現実として受け止めるには少し時間が必要だった。だが、奇妙なことに身体感覚だけは妙に現実的だった。
腹は減るし、疲れもある。若干だが眠気もある。
つまり夢ではない。
鞄を引き寄せ、中身をひとつずつ机代わりの木箱へ並べていく。
地球では当たり前だった持ち物が、今は妙に異物めいて見えた。
携帯電話を起動する。
当然ながら通信はない。
位置情報も沈黙したままで、画面の隅には、減り続ける電池残量だけが現実的な数字として表示されている。
これも、いつか使えなくなる。充電手段がなければ、時間の問題だった。
少しだけ迷い、写真フォルダを開く。
実家の犬。
研究室の飲み会。
空いっぱいの星。
会社帰りに撮った、なんでもない夜景。特別ではない日常だった。
だからこそ、急に遠く感じる。
帰れないかもしれない。その可能性を、初めて真正面から考えた。
怖くないわけではない。ただ、混乱より先に思考が動いてしまう。
問題が起きるほど頭が静かになる。感情より先に、何を優先するべきかを考えてしまうのは良い癖なのか悪い癖なのか、自分でもわからない。
まず生存、次に収入、情報収集。帰還方法の調査は、そのあと。
順番を間違えると、人間は案外あっさり詰む。
携帯電話の電源を落とし、手帳を開く。明かりは小さな油灯だけだったが、書けないほどではない。
【優先事項】
・寝床の安定
・食事の確保
・収入源の確立
・言語、通貨、法律の理解
・街の危険度確認
長期:
・帰還方法
・魔法調査
最後に少しだけ迷い、空欄へ追記する。
・ここで生きる前提も考える
書いたあとで、少しだけ息が止まる。認めたくない考えだった。
帰れない可能性、それを言葉にした瞬間、現実味が増してしまう。だが、希望だけで生活は成立しない。
工学の仕事をしていると、最悪条件を想定する癖がつく。起きてほしくない故障ほど、先に備える必要がある。
帰還できれば良い。だが、できない場合も考える。その方が生き延びる確率は高い。小さくため息をつき、手帳を閉じた。
その時、階下から怒鳴る声が聞こえてきた。
「寝るなよ! 働け!」
異世界初日から即戦力扱いらしかった。店内へ降りると、木箱が山のように積まれていた。
「こっち運べ」
近づいてみると、中身は工具や金属部品だった。重いが、運べないほどではない。何気なく中身へ目を向ける。
鉄の加工精度は粗い。規格化も弱そうだった。同じ種類の工具でも微妙に寸法が違い、嵌め込み部分にはかなり遊びがある。地球の工場なら検査ではじかれそうな出来だった。
ただ、それでも成立している。つまり必要精度が低いのか、別手段で補っているのか。
――魔法か。
「何見てる」
「工具です」
「好きなのか?」
少し考えてから頷く。
「物の仕組みを見るのは」
「職人か?」
「近いです」
それが一番説明しやすかった。博士号も会社員も、この世界では意味を持たない。ただ、仕組みを考える仕事だと言えば、少しは伝わる気がした。
「変な旅人だな」
呆れたように笑われる。
否定はしなかった。自分でもそう思う。
夕食は想像よりまともだった。
黒い硬めのパンに豆の煮込み、薄く切られた燻製肉、それから少し酸味のある汁物。豪華ではないが、空腹を満たすには十分だった。
ありがたく食べている途中で、ふと違和感に気づく。皿の横へ置かれた木製スプーンが、ほんの少しだけ宙に浮いていた。
糸も支えもない。
それなのに、まるで水面に浮く葉のように静かに揺れている。
「……浮いてますよね」
自然と口に出る。
「ああ、軽量化の術式だ」
あまりにも当たり前の口調だった。
「荷運びの連中はよく使う。重い物が少し楽になる」
合理的だ、と素直に思った。
つまり魔法は派手な戦闘技術ではなく、生活技術だ。
運搬、照明、暖房。生活を便利にするための手段。
そう考えると、ひとつ疑問が浮かぶ。
「誰でも使えるんですか」
怪訝そうな顔をされる。
「お前、本当に何も知らねぇんだな」
「かなり遠くから来たので」
しばらくこちらを見たあと、小さく肩をすくめた。
「練習すりゃ誰でも使える。得意不得意はあるが、火を出すくらいなら子供でもできる」
少し安心する。
特別な力は期待していない。生活できる程度なら十分だった。
だが、その期待は翌朝、あっさり崩れることになる。
「……おかしいな」
連れてこられた老人が首を傾げていた。
近所で魔法を教えている人物らしい。店主が面白半分で呼んだのだろう。
「もう一回やってみろ」
言われた通り、意識を集中する。
空気の流れ、身体の感覚、何かを掴むように。
だが、何も起きない。
何度も繰り返すが変わらない沈黙。火花ひとつ出なかった。
老人は困ったような顔をする。
「普通、初歩くらいは反応するんだが……」
「向いてないとかですか」
「いや、違う」
少し考え込んだあと、ぽつりと言った。
「川がない土地みたいだ」
意味がわからず聞き返す。
「川?」
「魔素が流れてない」
初めて聞く単語だった。
「魔法の元になる力だ。誰の中にも多少は流れてる。弱い奴はいるが……ここまで何もないのは初めて見た」
横で店主が吹き出す。
「珍品だな、お前」
笑い事ではない。もし魔法が生活基盤なら、自分だけ使えないのはかなり不便だった。
だが、少し考えて気づく。使えないなら、代替手段を考えればいい。
地球でも同じだった。できないことを、できるようにする。
そのための技術が工学だ。そして、その瞬間ふと頭へ浮かぶ。
――魔法を使えない人向けの技術は、需要になるのではないか。
「そういえば」
店主が机の上の筆記具を持ち上げる。
「昨日の変な筆記具、似たもんなら作れるんだろ?」
少し考える、完全再現は無理だ。
だが。
「簡易版なら」
答えた瞬間、商人の目が少しだけ変わった。
異世界で最初の仕事が、ようやく形になり始めていた。




