壊れていない故障
翌朝は少し寝不足だった。
昨夜、望遠鏡を覗く時間が長くなってしまったせいである。工房のことを考えながら空を見ていたはずが、気づけば観測記録へ細かな注記を書き足し始めていた。帯状に広がる靄のようなもの、僅かな位置変化、見え方の違い。
粗末な望遠鏡で確信を持てるほどの精度はない。それでも、理由を説明できない違和感ほど後から意味を持つことがあるという経験は、長く研究をしていると嫌でも積み重なる。元の世界でも、誤差と思われた数値が後に研究の核心へ繋がることは珍しくなかった。だから、今はまだ意味がなくても記録だけは残しておく。後から否定するにせよ、材料がなければ何も始まらない。
もっとも、今の現実問題として優先順位が高いのは空ではなく地上だった。
工房。修理。筆記具。
朝食を取りながら頭の中で同じ計算を何度も繰り返す。空き倉庫を借りた場合の費用、必要な工具、最低限の修繕費、そしてどこまで仕事を受けるべきか。修理依頼は増え始め、筆記具の追加注文も来ている。学院の設備へ頼り切るのは危ういし、古物屋の物置では既に手狭だった。帰れる保証がない以上、生活基盤を作る必要がある。生活基盤を作るなら仕事が要り、仕事を安定させるなら場所が要る。順番に考えれば極めて現実的な話だった。
店へ降りると、店主は朝から帳簿を開いたまま珍しく機嫌が良さそうだった。こちらを見るなり、少し鼻を鳴らす。
「文具屋から追加だ」
やはり来たか、と思う。試験販売の反応は悪くないと聞いていたが、どうやら本格的に動き始めているらしい。役所勤めや商人に評判が良いという話だった。毎日使う道具ほど、小さな便利さが積み重なる。一度でも羽根ペンの面倒が減れば、元へ戻りたくないのは当然だった。
「数は?」
聞いた瞬間、頭の中で現実的な問題が並び始める。無理ではない。ただ、今の体制では厳しい。品質を落とせば作れる。しかし、最初で信用を崩すのは避けたい。地球でも、試作品から量産へ移る時期ほど事故が多かった。品質管理、納期、供給不足――技術だけでは回らない問題が急に増える。
「急ぐなよ」
店主が帳簿から顔を上げる。
「最初で無理すると潰れる」
珍しく真面目な助言だった。商売人として積み重ねた経験則なのだろう。少し頷く。工房を持つという考えが、昨日よりさらに現実味を帯び始めていた。
学院へ向かう道中も、そのことばかり考えていた。修理仕事をどこまで受けるか、学院とどう距離を取るか、工房を借りた場合に修理と筆記具製作を同時に回せるか。気づけば、異世界へ放り出された人間というより、独立準備中の技術者みたいな悩み方をしている。少し可笑しかった。もっと絶望するものだと思っていた。知らない世界、帰れる保証もない生活。それでも、人間というものは忙しいと案外前を向く。
研究棟へ足を踏み入れた瞬間、少し空気がおかしいことへ気づいた。
静かなのに落ち着きがない。研究員たちは紙束を抱えたまま早足で行き交い、机には修理待ちの魔導具が並んでいる。ただ、それだけではない。どこか焦りに似たものが空気へ滲んでいた。研究機関で雰囲気が変わる時というのは、大抵ろくなことが起きていない。地球でも、設備事故か予算問題か、あるいは理論を揺るがす何かが起きた時ほど妙な静けさがあった。
部屋へ入るなり、主任が顔を上げた。少し寝不足気味だが、目だけが妙に冴えている。危ない顔だった。研究者が面白い問題を見つけた時の顔に近い。ただ、今回は少し違う。興奮より厄介事に近い色が混ざっていた。
「来たか」
低い声だった。
「修理、少し変なことになった」
嫌な予感しかしない。視線を向けると、数日前に修理した暖房器具が机へ置かれていた。
「直したやつですよね」
「そうだ。昨日までは正常だった」
主任が腕を組む。言葉を選ぶように一拍置いたあと、静かに続ける。
「今朝、急に止まった」
修理ミス。再発。可能性はいくつも浮かぶ。だが、主任の表情はそれだけではないと言っていた。
「それだけならいい」
その言い方で、少し背筋が冷える。
「壊れてない魔導具まで、急に止まり始めた」
一瞬、意味が理解できなかった。
修理品ではない。正常に動いていた物だ。それが突然止まる。しかも一件ではないらしい。研究員の一人が資料を差し出す。場所はバラバラ、年代も違う、術式構造も一致しない。共通点らしい共通点は見当たらない。ただ、症状だけが妙に似ていた。
――魔素出力の低下。
そんな記述が目に留まる。
自然と、昨夜見上げた空が頭を過ぎった。あの妙な帯。理由の説明できない違和感。
もちろん、結びつけるには早すぎる。
ただ、妙に引っかかった。
そして主任が、静かに言った。
「原因を探る」
嫌な予感がした。
この話は、長くなる。




