街に根を張る
学院へ通う日々が続くにつれ、生活の重心が少しずつ変わり始めていた。
最初の頃は、生き延びることだけで精一杯だった。寝床を確保し、食事を得て、言葉と通貨に慣れ、街の危険を知る。それだけで一日が終わっていたはずなのに、いつの間にか考える内容が変わっている。
来週をどう過ごすか。
今月をどう回すか。
そして、この世界で何を仕事にしていくか。
帰れる保証がない以上、生活を仮設のままにはしておけなかった。だからこそ、筆記具の試作は思っていた以上に真剣になっていた。
学院から戻ったあとも、物置部屋へ籠もり、削った木材や細い金属片を並べながら改良を重ねていく。机代わりの木箱はいつの間にか作業台になり、隅には失敗作が増え始めていた。インク漏れ、詰まり、摩耗。単純に見える道具ほど、安定性を作るのが難しい。
地球にいた頃、先輩研究者が言っていた言葉を思い出す。
――便利なものほど面倒だ。
その意味が少しわかる。
誰でも使えるということは、誰が使っても失敗しない精度が必要になる。天才だけが扱える道具は広まらない。普及するのは、考えなくても動くものだ。
そして、その“当たり前”を作るために、見えない失敗が積み重なる。
夜更け、失敗作を並べながらため息をついた。羽根ペンより楽に書ける。
そこまでは良い。問題は量産だった。
一本なら作れる。
だが売り物になるほど数を揃えようとすると、精度が足りない。同じ太さ、同じ削り方、同じインク量――規格という概念が弱いこの街では、職人ごとの差が大きすぎた。
工業化前夜。そんな印象だった。
個人の腕で成立している世界。だからこそ、逆に隙がある。規格化できれば強い。それは地球の歴史が証明していた。
翌朝、試作品を何本か抱えて店へ降りると、店主が胡散臭そうな顔を向けてきた。
「また増えたな」
机へ並べる。
見た目は地味だが、最初の頃より書き味は安定している。
「少し改良しました」
試し書きをさせると、店主は以前より長く黙った。紙へ何度も線を引き、途中で止まらないことを確かめ、最後に少しだけ眉を上げる。
「……売れそうだな」
その一言は、思ったより嬉しかった。
研究者を長くやっていると、評価される機会というものは意外と少ない。論文は厳しく見られ、成果は予算と比較され、便利さほど“当たり前”として消費される。
だから単純な反応の方が、案外わかりやすい。
「ただ、高そうだ」
続く言葉に頷く。
そこは課題だった。削り工程が多い。材料の安定供給も必要。
何より、今は自作に近い。
「高級品から始めるしかないですね」
「役人か、商人か」
「書類仕事が多い人でしょうね」
店主は少し考え込んだあと、小さく鼻を鳴らした。
「なら、一人紹介してやる」
思わず顔を上げる。
商人の顔だった。利益の匂いを嗅いだ時の顔。
「文具を扱ってる奴だ。変わり物が好きでな」
悪い話ではない。
むしろ早い。
異世界でここまで繋がりができるとは思っていなかった。少しだけ、胸の中に現実感が増す。
――ここで暮らしていく。
まだ完全には受け入れていない。
それでも、少しずつ準備は始まっている。
昼過ぎ、学院へ向かう途中で空を見上げた。
晴れている。
雲が薄い。
ふと、久しく望遠鏡を触っていないことを思い出した。
趣味だった。
忙しい時ほど、空を見る時間だけは好きだった。
星は嘘をつかない。
少なくとも、人間関係や会社よりはずっと単純だ。位置があり、法則があり、予測できる。
だから落ち着く。
もっとも、今の空はまだ落ち着かなかった。
星座が違う。月の形も、微妙に違う。
夜空を見るたび、知らない場所へ来てしまった感覚が少しだけ胸へ戻る。ただ同時に、別の感情も生まれ始めていた。
もし本当に違う星系なら。
もし本当に帰れない距離なら。
それでも数百年、あるいは千年先には、技術が追いつく可能性はあるのではないか。
工学をやっていると、不可能という言葉を簡単には信じなくなる。
蒸気から電気へ。
飛行機から宇宙へ。
地球も、百年で笑えるほど変わった。
なら、この世界も。魔法と技術が交われば、いつか星を超える日が来るかもしれない。
希望というほど強くはない。ただ、完全な絶望でもなかった。
研究棟へ入る前、空をもう一度見上げる。
帰れない、ではなく。
今はまだ、帰る方法が見つかっていないだけ。
そう考える方が、少しだけ前を向ける気がした。




