眩い光の先
会社を出た頃には、街の灯りがひとつずつ増え始めていた。
西の空にはまだ夕方の色が残っていたが、ビルの谷間にはもう夜が入り込んでいる。人々は駅へ向かい、車は赤い尾灯を連ね、コンビニの看板だけが一足早く昼間のように明るかった。
鞄を肩に掛け直す。中にはノートパソコン、手帳、筆記具、簡易工具、読みかけの専門書、昼に食べ損ねた菓子パンが入っていた。会社員の鞄としては少し重いが、珍しいほどではない。もっとも、簡易工具と専門書が常に入っている会社員は、少し珍しいかもしれなかった。
工学博士。
そう名乗れば聞こえはいいが、会社ではその肩書きが便利な時ばかりではない。理屈は大事だが、現場には現場の都合があり、予算には予算の顔色があり、人間関係には計算式のような解がない。
今日も、そういう一日だった。
ため息をつきかけて、やめた。疲れている時のため息は、疲労に名前をつけるだけで、状況を良くはしない。
代わりに空を見上げる。この時間では、まだ星は見えなかった。
趣味は天体観測だった。誰かに見せびらかすものでも、仕事に役立つものでもない。ただ、遠くにあるものを遠くのまま眺める時間が好きだった。地上の面倒事は、宇宙の尺度で見ればたいてい小さい。そう思えるだけでも、十分に価値があった。
駅へ向かう角を曲がろうとした時、視界の端で何かが白く弾けた。車のライトかと思った。工事現場の照明かとも思った。
だが、違った。
光は前から来たのではない。上からでも、横からでもなかった。世界そのものが、内側から白く塗りつぶされていくようだった。
反射的に目を閉じる。まぶたの裏まで光が入り込んできたが、不思議と熱はなく、音もなかった。ただ、輪郭という輪郭が消えていく感覚だけがあった。
次に足の裏へ伝わったのは、アスファルトの硬さではなかった。
柔らかい土、風が吹いていた。
ゆっくりと目を開けると、そこには街がなかった。
ビルも、信号も、コンビニの灯りも、駅へ向かう人の流れもない。あるのは、見渡す限りの草原だった。低い草が風に撫でられ、一斉に銀色の腹を見せている。遠くにはゆるやかな丘が連なり、その向こうに石造りらしい街並みが小さく見えた。
空はあまりにも広すぎた。
都心の空は、建物に切り取られている。ここにはそれがない。空がそのまま地平まで落ちていて、見上げているだけで自分の位置感覚が怪しくなる。
匂いは草と土に近い。重力も、体感では大きく違わない。気温は春か秋の夕方に似ていた。
ポケットから携帯電話を取り出す。電波はない。
当然のように画面は沈黙していた。都心にいたはずの人間が、突然草原に立っているのだから、携帯電話が役に立たない程度のことは驚くに値しないのかもしれない。
だが、その考え方は少しおかしい。
驚くべきことが大きすぎると、人間は小さな異常に冷静になるらしい。
「……どこだ、ここ」
声に出してみても、答える者はいなかった。鞄を下ろし、中身を確認する。
鞄が重いと感じる程の仕事道具に食べ損ねた菓子パン。
地球ではありふれた物ばかりだった。
役に立つのか、危険を招くのか。判断材料はまだ何もない。
財布を開く。紙幣と硬貨がある。小腹を満たすパンが買える程度の硬貨も、何日か食費を支えられる程度の紙幣も、ここで使える保証はなかった。
金銭の見通しが立たない状態は嫌いだった。
善意はありがたい。だが、善意だけでは飯も寝床も確保できない。地球でもそうだったし、ここがどこであれ、おそらく同じだろう。
遠くの街へ視線を向ける。
あそこに人がいるなら、情報がある。情報があれば、選択肢が生まれる。問題は、その人々が友好的とは限らないことだった。
服装、言語、貨幣、法律、宗教、治安。どれもわからない。自分はスーツ姿で、鞄を持って、草原の方角から歩いてくる不審者である。門番がいれば止めるだろうし、自分が門番でも止める。
それでも、他に行く場所はなかった。
鞄を肩に掛け直し、街へ向かって歩き始める。
草を踏む音がやけに大きく聞こえた。
歩くにつれ、街の輪郭は少しずつはっきりしてきた。外壁がある。石積みの壁で、城塞都市という言葉が頭に浮かぶ。門の近くには荷車らしいものが出入りしており、それを引く獣は馬に似ていたが、首が太く、背が低く、知っているどの家畜とも少し違っていた。
そこで足が止まった。異国ではない。
少なくとも、知っている地球上のどこかではない。
そう認めるにはまだ早い。早いが、目の前の光景は、そうでなければ説明しにくいものばかりだった。
門の上には、青白い灯りが浮かんでいた。
炎ではない。電灯でもない。透明な鉱石のようなものが金属の枠に収められ、そこから淡い光が漏れている。光源が見えるのに、燃えている様子がない。
近づくと、槍を持った男がこちらに気づいた。
金属の穂先。木製の柄。腰には短い剣。銃火器らしいものは見当たらない。文明の見た目だけで判断すれば、中世から近世あたりに見える。
ただし、門の上の灯りだけが、その判断を邪魔していた。
「おい、旅の者か?」
男が何かを言った。
意味がわかった。
聞いたことのない響きなのに、意味だけは自然に頭へ入ってくる。翻訳機を通したような違和感はなかった。昔からその言葉を知っていたかのように理解できる。
喉が乾いた。
「あ、はい。旅の者……です」
自分の口から出た言葉も、同じ響きを持っていた。門番は不審そうに目を細めた。
「妙な服だな。どこの生まれだ」
一瞬迷う。
恐らく通じないだろう。正直に言えば、狂人扱いされる可能性が高い。
「かなり遠いところです。地名を言っても、おそらくご存じないかと」
「この辺りじゃ聞かん訛りだ。だが言葉はまともだな」
曖昧に笑う。
まともなのは言葉だけかもしれない。
「身分札は?」
来た。やはり身分証明が必要らしい。
「盗まれました」
とっさに出た嘘だった。
門番の目が鋭くなる。
「荷はあるのにか」
「身分札と、少しの金だけです。こちらに来る前に」
自分でも苦しいと思った。だが、異世界から来ました、と言うよりはまだましだった。
門番はもう一人の男と顔を見合わせる。
「金もない?」
「少しならあります。ただ、この街で使えるかはわかりません」
財布から硬貨を一枚取り出した。地球では菓子パンひとつを買うにも足りたり足りなかったりする程度の、小さな硬貨だった。
門番はそれを受け取り、表裏をまじまじと眺める。
「なんだこれは。見たことがない」
「故郷の硬貨です」
「銀ではないな」
「違います」
「鉄でもない」
「違います」
「では、何だ」
少し考えた。
「いくつかの金属を混ぜたものです」
門番は硬貨を指で弾いた。澄んだ音が鳴る。その音を聞いて、横の門番も興味を示した。
「細工は細かいな」
「偽貨ではなさそうだが、貨幣でもない」
二人の反応を観察する。
価値がないわけではない。少なくとも珍品としての関心は引ける。だが、売る相手を間違えれば足元を見られるし、奪われる危険もある。
門番は硬貨を返した。
「入市税を払えないなら、保証人がいる。宿の主人でも商人でもいい。いなければ詰所で事情を聞く」
詰所。拘束。尋問。身元確認。
避けたい言葉が頭に並ぶ。
「この街に、道具や珍しい品を扱う店はありますか」
「あるが」
「そこで持ち物を見てもらいたいです。価値があれば、入市税を払えます」
「価値がなければ?」
「働いて返します」
門番は少し笑った。
「ずいぶん簡単に言う」
「簡単ではありません。ただ、他に選択肢がないので」
その答えに、門番の表情がわずかに緩んだ。困っている人間への同情か、それとも面倒を避けたいだけかはわからない。どちらでもよかった。
しばらくして、門番は顎をしゃくった。
「ついてこい。店まで連れて行く。逃げたら面倒になるぞ」
「ありがとうございます」
「礼は、金を払ってから言え」
もっともだ。
街門をくぐった瞬間、匂いが変わった。土、獣、煙、焼いた肉、酒、汗、香草、金属。それらが混ざり合い、見知らぬ街の匂いになっている。
石畳の道を、多くの人が行き交っていた。肌の色も髪の色も服装もさまざまだが、見たところ人間だった。少なくとも、耳が尖っていたり、角が生えていたりはしない。
建物は石と木でできている。窓は小さく、屋根は急勾配で、看板には見知らぬ文字が書かれていた。
読めた。宿、鍛冶、薬草、両替、魔灯具。
最後の文字で、思わず足が鈍りそうになる。
魔
この世界では、それが冗談ではなく、商売の看板に掲げられる程度には日常らしい。
「どうした」
「いえ。珍しい店が多いなと」
「田舎者か」
「似たようなものです」
街のあちこちには、門の上で見たのと同じ青白い灯りがあった。炎とは違う静かな光が、軒先や店内を照らしている。
まずは情報、次に食事、その次に寝床。帰る方法は、その後だ。
優先順位を間違えると、人間は簡単に死ぬ。
門番に連れられて着いたのは、通りの端にある古びた店だった。
看板には、雑貨、古物、道具買取を意味する文字が並んでいる。店先には鍋、壺、古い燭台、欠けた工具、用途不明の金具、色あせた布、壊れた灯具らしきものが雑多に置かれていた。
混沌としているが、少し安心した。
こういう店なら、未知の物にも値段をつける。正しい値段かどうかはともかく、値段をつけるという行為そのものが商売の始まりになる。
店の奥から、丸い眼鏡をかけた初老の男が出てきた。
「なんだ、また拾い物か」
門番がこちらを親指で示した。
「こいつの持ち物を見てやってくれ。入市税も払えんらしい」
店主は頭から足先まで眺めた。
「服も込みでか?」
「服は売りません」
即答した。
店主は笑った。
「困っている割に、そこは早いな」
「裸で働くよりはましなので」
「なるほど。多少は頭が回る」
手招きされる。
「見せてみろ。金になるかは知らんが、退屈はしなさそうだ」
鞄を下ろした。
ここから先は交渉だった。
帰れるかどうかもわからない世界で、最初の商談が始まろうとしていた。




