まなざし(紀子・夏樹)
1957年(昭和32年)。
夏樹21歳。
紀子16歳。
5歳年上の従兄の夏樹を好きになったのは、いったいいつだったろうか、と紀子は考える。
小学生のときには、すでに好きになっていたような気がする。
夏樹は、男のくせに美しかった。神護家の男たちは、みな目鼻立ちが整っていたが、夏樹の美しさは少し度を越していた。子供時代のくりくり坊主頭のときでさえ、得も言われぬ艶のようなものがあった。
紀子もその美貌を褒められることが多かったが、夏樹には敵わないと思っている。紀子の美貌は人形のような美しさだった。型にはまったような、個性がない、美人とはこういうものだという見本のような美しさ。それに加えて紀子は表情が乏しい。そこが魅力だという者もいたが、紀子にとってそれは瑕だった。
いっぽう夏樹は、あの美しい顔でとろけるような笑みを浮かべる。心配するときは夏樹自身が傷つけられているかのような切ない表情をする。怒ったときの鋭いまなざしと、上気した頬は、その瞬間を留めておきたいと思わせる芸術品だ。
夏樹は紀子にとって理想であり憧れだった。
これが恋なのかどうか、紀子自身もよくわからない。しかし、少なくとも生涯を共にするならば、許婚であるひとまわりも年上の貴一よりも、だんぜん夏樹がよかった。
夏樹は、紀子と話をするとき、真っすぐに紀子を見つめる。透き通った揺るぎない瞳で、こちらをひたと見据える。夏樹はだれと話すときも、そうやって相手を全力で見つめるのかもしれないが、今この時、自分と向き合っているときだけは、自分だけをその視界におさめ、自分だけに意識のすべてを向けてくれている。こんな目で自分を見てくれる人は他にいなかった。たぶん、あの真っすぐな瞳が好きだったのだ。あのまなざしが好きになった原因なのだ。
どんなに思っても、届かない思いであることはわかっていた。だからせめて、彼が遠い場所に行ってしまうまでは、別れの日までは、その姿を見つめ、心に刻んでおきたいと思っていた。
それなのに、大学に進学した夏樹は、みなで暮らす小田原の家を出て、東京へ行ってしまった。
やがて、親たちが夏樹の行状を嘆いているのを聞くようになった。学業をおろそかにして遊び呆けている。賭け事で借金をした。女に入れ込んでいる。
最初は信じられなかった。それまでの夏樹は、木陰で静かに本を読んでいるような男だった。人に助けを求められれば嫌な顔もせずに手を差し伸べるが、他者とはどこか線を引いているような、自分から積極的に関わり合うことは避けているような、そんな男だった。そんな男の豹変は、いったい何が原因なのだろう。定められた彼の悲しい未来が、彼をそんな行状に導いているのだろうか。
彼は何を思い、何を悩み、何を惑っているのだろう? 紀子はそれを知りたいと思った。知って、彼の心を支えてあげることができればいいのにと思った。
大学に進学して3年目の夏、帰省した夏樹に紀子は縋りついた。せめて別れの日までは、あなたの支えになりたいのだと、初めて言葉で伝えた。
しかし、夏樹は紀子を見ようとしなかった。常に真っすぐに見つめてくれていたあのまなざしを向けてくれない。目を逸らし、そして、その目はどこか遠くを見ている。その目に紀子は映っていない。
紀子は、夏樹の腕を掴んでいた手を離した。
――夏樹は、もう戻ってこない。
そんな確信が胸を突き、紀子は自分の部屋に駆け戻ると、ひとり静かに泣いた。




