14.ソラール王妃、右手に銀の匙
私がソラールに来て、数週間が経過した。
和やかな春の陽気から転じて、季節は雨雲の多い気候へと変わり始めていた。ここ何日かは雨が続いていて、時折雷も聞こえて少し怖い。けれど、私が雷に怖がっていると、どこからともなくセルジュ様がやってきて、大丈夫だよと寄り添ってくださるので、雷への恐怖が紛れていた。
セルジュ様へはそろそろ城下町へ出かけたいとも伝えているのだが、「もう少し城での生活に慣れてからね」と言われてしまい、その願いはまだ叶っていない。ソラールの市場にどんな食べ物があるのか、人々がどんな暮らしをしているのか、この足で歩いて知っておきたいのだが……仕方がない。
大雨ではあるが、執務は滞りなく進む。ざあざあと降り注ぐ雨は大地の恵みだろうけれど、その途中でピシャン!と鞭打つように鳴り響く雷は、やはり苦手なのだった。仕事がひと段落して、空腹の腹の虫に誘われて食堂へ参じれば、すでに美味しそうな夕食が配膳されている。
ソラールに来てから、私は食べる楽しみ、というものを感じるようになっていた。ステラノヴァは素材そのものを味わうのが美徳とされていたが、ソラールは味付けこそ至高、という趣があるらしい。実際、どんな料理も味わい深く、ずうっと食べていたいと思うほどだった。
ジゼルからセルジュ様は少し遅れてくるとの言伝があり、疲れた自分を労わろうと、先に食事を始めることにした。
席につくと、陶製の食器によそわれたポタージュがふわり、と香って食欲をそそる。銀に輝くスプーンを手に取って、ひと匙。液面に触れるか触れないか、そのときだった。
ばちっ、と小さく音を立てて、スプーンが皿に弾き飛ばされた、ような気がした。からん、とスプーンが床に転がっていく。
「失礼、したわ」
「構いませんよ奥様。新しいものに取り替えますゆえ」
食事の世話をするための侍女たちが床に落ちたカトラリーを拾って、新しいものを渡してくれた。
知っている。この現象、以前にもあった。ポタージュ皿へ向き直ろうとして、やはり、視界の端で光るものがある。
胸元、ペンダントトップの青い宝石。それが、再び淡く光っているような、そんな気がした。ちか、ちか、と夜空で瞬く星の光を思い出させる輝きが、ふと、赤く色づいて見える。まるで、何かを警告するように。悪意から、私を守るように。
何かが、おかしい。
右手には銀のスプーン。目の前にはじっくり煮込まれただろう黄色いポタージュ。湯気がたちのぼって、出来立てで、本当に美味しそう。まじまじと皿を見る。
料理に仕込まれる敵意。まさか、と思いながら、そばに控えていたジゼルを呼びつけた。
「どうかなさいましたか」
「……このカトラリー、銀かしら」
「え、ええ。ソラールのカトラリーは、貴族以上の人々であれば銀を使うように、とのお達しですが」
そう、と返事をする。ジゼルの声が遠く聞こえる。耳鳴りがする。どく、どく、と心臓が音を立ててやかましい。
スプーンを、ポタージュへ沈める。何度かかき混ぜて、かき混ぜて、しばらくして――息を呑む。
「ジゼル」
声が強張る。目の前がくらりと歪むけれど、ここで倒れるわけにはいかない。体調には異常がない。ただ、その事実に戦慄する。
「どうなさいましたか。……奥様、まさか……!」
貴族令嬢としての教育を受けたことがあるジゼルも、違和感に気づいたようだ。
――銀食器が黒く変色している。
「……アーセニカムだわ」
給仕をしていた使用人たちが、ぴたりと動きを止めた。
「王妃様、今なんと」
「毒、です。このスープ……飲めば、命がないわ」
使用人達の間でざわめきが起こった。
アーセニカムは暗殺などでよく使われる毒だ。無味無臭で無色であり、食事や飲み物に混ぜるのにとても使用しやすい。唯一の欠点としては、銀によく反応しその色を黒く変色させるという特徴だろう。かつて、ステラノヴァとソラールが戦争をしていた百年前には、毒殺予防に銀食器が日常的に使用されていたと歴史書にはあったが、それも昔の話。形式的に銀のカトラリーを使うことはあれど、アーセニカム自体は一般に流通しているものではない。ステラノヴァでは禁止薬物として指定されていたがおそらくソラールもそのはずだ。
誰が、何の目的で私に毒を盛ったのか――。それを解決しなければならない。見えざる敵からの殺意と悪意を感じて、胃の腑がひっくり返りそう。けれど、このままうずくまっては証拠が消えてしまう。大きく息を吸い込んで、周囲に命じる。
「今日の来賓の予定があれば、申し訳ないけれど取り消してちょうだい。それから、今の時点から城門、通用門を全て閉じて。城内にいる人を返してはいけません。ジゼル、マティアス様に連絡して手配してくれる?」
「はい、奥様!」
毅然とした態度で命じる。弱みを見せては殺されるかもしれない。ジゼルが慌てた様子で、しかし軽やかにおさげを跳ねさせて食堂を出ていく。ふむ、と黒色になったスプーンを眺めていると、外からばたばたと音がして――バタン!と大きな音で食堂の扉が開いた。
「プリム、無事か!?」
鬼気迫る顔をしたセルジュ様が、私の手にする黒に変色した銀のスプーンを見て顔を顰めていた。
「アーセニカム……っ! 食べてないよな、スプーンだけだよな。プリム、君は」
「陛下、陛下、落ち着いて。――私は無事です。食べる前に気付けました」
よかった、と言って、陛下は私からスプーンを取り上げてテーブルへ置いてしまう。それから、ぎゅう、と思い切り抱きしめられた。
「せ、セルジュ様、皆が見ていますから……!」
「そんなの知るか。君がちゃんと生きてるって確認させてくれ」
セルジュ様のしっかりした体つきで抱きしめられると、どうにも気持ちが落ち着かない。男の人だということを意識させられているような感じがして、さっきとは別の意味で心臓が落ち着かなかった。大きな背中に手が回りきらないけれど、ぎゅう、と抱きしめ返して、自分の無事を伝える。
しばらくしてセルジュ様が離れたあと、ふと、スプーンが気になった。ひとつ、気になることがあり、給仕係の侍女を呼びつける。
「私が初めに手にしていたスプーン、どこにあるかしら。床に落としてしまったのだけれど」
「ああ、それでしたら私のポケットに」
侍女のエプロンから出てきたスプーンを手に取って、私の皿のポタージュに浸す。数回かき混ぜても色が変わらない。私のペンダントが警告していたのは、これだったのだろう。
つまり、初めのスプーン――銀色だが、おそらく銀製ではない――でポタージュを飲んでいた場合、今頃、私は天に召されていたことだろう。
状況を把握したセルジュ様が、ぎり、と歯軋りをなさった。瞳が怒りで燃えている。ポタージュに毒を仕込んだ者。カトラリーを銀ではない素材にすり替えた者。犯行に及んだ人間が何人いるかは不明だが、少なくとも一人は、私の命を狙っている人間が城内に紛れ込んでいる。
「……明確な、君に対する殺意だね」
セルジュ様の拳を握る手が真っ赤になって、爪が食い込んでいるせいで血が滴っている。
「せ、セルジュ様、血が」
「構わん」
深い緑の瞳が、昏い光を湛えている。ぞく、と背筋に寒いものが走った。敵対者を決して許さぬ王の意志。セルジュ様はちっ、と舌打ちをして、ポタージュを睨みつけた。
再度扉が開く。
「プリムローズ様、ご無事で……」
マティアス様がジゼルに連れられて駆けつけて下さった。陰鬱な使用人達の雰囲気にごくりと唾を飲んで、殺気立つセルジュ様に近寄った。
「マティアス」
「はい、陛下」
普段の気安い口調が消え失せている。
「王妃殺害未遂だ。実行犯を直ちに捉えて僕に差し出せ。――できるよな」
にこりとも笑わず、セルジュ様は冷たい声で命を下した。




