9、(6)朝食と少女、魔獣の朝食
朝、空気がやけに冷たい。
フィーネが目を開けると、テントの内側には白い息が漂っていた。夜露がしみ込んだ布地が光を透かして、まるで霜柱の中に寝ていたようだ。
外からは金属音が鳴っている。カンカン、カンカン。あれはディルクだ。
朝からハンマーを握って上機嫌。寝起きの悪い人間にとっては、もはや攻撃行為である。
この男、日の出と同時に全力稼働する。鉄と同じで、冷えてるときが一番頑固だ。
隣の寝袋では、少女がまだ眠っていた。
あれほど異世界感を全身にまとっておきながら、寝相だけは修道女みたいに整っている。
人は寝てるときに正体が出る。そう考えるなら、彼女はきっと几帳面で、そして少し不器用だ。
フィーネは外に出て伸びをした。
空に向かって、二つ目の太陽が昇るところだった。
遠くの草原が金に光り、朝露が靴にまとわりつく。ペチョ、ペチョ。音が小気味よい。
焚き火のそばで、ディルクが湯を沸かしていた。
鍋の中は、通り見た目の悪いスープが澱んでいた。
見た目は明らかに「飲む勇気を試される色」をしていたが、彼は鼻歌まじりでおたまを回していた。
いつも通りの朝だ。
「おーい! 飯の用意ができたぞい!」
相変わらずの大声がうるさい。
少女も外に出てきて、目をこすりながら座った。
まだこの世界のリズムに馴染めていないようだ。首を傾げながら、昨日渡したナイフでパンを切ろうとしているが、見ているこっちの心臓に悪い。
フィーネはナイフで小さく切ってやった。
少女は宝物でももらったように、その切れ端を抱える。
──かわいい、というより、危なっかしい。
それでも、ほんの少しずつ空気が和んでいた。
そんな中、ゲルトが不快そうに言った。
「ご大層なお貴族様達はどうしたんだ?」
「奴らなら、一つ目の太陽が昇る前に出て行きおったぞ」
「昨夜も物々しかったし、どうせろくなことじゃないんだろ」
「まぁ、変に構われなかったから良かったんじゃない」
「奴らのことなど知らん。それより飯に集中じゃ」
「そうだな」
ディルクが陽気に笑い、ゲルトが馬を撫で、ローデリヒは寡黙に見守る。
朝の平和というやつだ。
だが、昼前──空気が変わった。
森のほうから、ざわ……と低い波が押し寄せた。
風ではない。音ではない。生き物たちが息を吸うような気配。
フィーネは思わず顔を上げた。
次の瞬間には、ディルクがハンマーを構え、ゲルトの耳がピンと立っていた。
ローデリヒの手が、無言で剣の柄を握る。
早い。全員が、ほぼ同時に動いた。
長年の勘というやつだ。
「なにか来るわ」
誰も返事をしない。ただ頷く。
フィーネは短く号令をかけた。
「馬を囲め。少女は下げて」
言葉は通じないが、少女も状況は察したらしい。目を丸くして、木の陰へ走る。
あの子の世界にも“逃げろ”という本能は共通しているようだ。
風が止んだ。
次の瞬間、森が裂けた。
灰色の毛並み、赤く光る目、息が白く蒸気になる。
狼──いや、狼に似た何か。
十、二十、もっと。数える間もなく広場が埋め尽くされた。
「想像でしかないが、先にたった人たち、夜のうちにちょっかい掛けてたりしてないわよね」
「ふん。奴らならやりかねん。街育ちの坊ちゃんぽかったしな」
「で、自分たちは早々に逃げ出したってわけじゃな」
「この数、ちょっとまずいわね」
フィーネは剣を抜く。
陽光が刃に反射し、一瞬だけ世界が白く光った。
そこからは、ただ体が動いた。
前へ踏み込む。急所を突く。切り上げ、振り返る。
思考よりも先に、体が動いていた。
背後で地面が揺れた。ディルクのハンマーだ。
一撃ごとに地面が鳴り、狼もどきが地面にめり込む。
「文明の暴力じゃの」と昨日は感心していたが、今の彼自身がその言葉の化身だった。
ゲルトは風のように動く。
背中から背中へ跳び移り、剣が風切り音を残す。
耳が完全に戦闘用アンテナになっている。まさに獣の職業人。
ローデリヒは馬を守るように立っていた。
剣を抜かずとも、近づくものを睨むだけで距離を保たせる。
彼は“動かない壁”のような男だ。
フィーネは一瞬、少女の姿を探した。
いた。木陰で震えている。
……あれ以上近づかせるわけにはいかない。
そのとき、茂みが揺れた。
黒い影。ひときわ大きな狼もどきが姿を現した。
他の個体とは毛並みが違う。艶があり、目の光が異様に強い。
少女の方を向いた。
「しまっ──」
フィーネの声より先に、少女が走り出した。
反射的だったのだろう。叫びもせず、ただ逃げる。
森の奥へ。
フィーネは弓をつかみ、矢を番えた。
黒い影が飛びかかる。矢を放つ。
──ズシュ。
空気を裂く音とともに、黒い狼の頭が弾けた。
もう一本。
だが、別の個体が横から飛び出した。
それが馬を弾き飛ばし、衝撃でフィーネは地面に転がる。
視界が反転し、土の味が口に広がった。
周囲では血と獣臭と金属の音。
立ち上がると、もう少女の姿は見えなかった。
森の奥へ、白い背中が一瞬だけ見えた。
フィーネは歯を食いしばった。




