10、モフれないわんわん王国
【2026/5月改訂】
七色視点
煙って、いいよね。
文明の証というか、誰かが「ここにいるよ」って合図してくれてるみたいで。
音もしないくせに、見つけると妙に安心する。
ああ、世界に自分以外の誰かがいるんだな、って思えるから。
……いや、今いるこの世界が、本当に“人間のいる世界”なのかどうかは、まだ怪しいんだけど。
わたしは右足をかばいながら、拾った枝を杖代わりにして歩いていた。
距離感がまるで掴めない。煙が近いのか遠いのか、それすらよくわからない。
それでも、動いているあいだは少しだけ生きている気がした。
止まると、たぶん余計なことばかり考えてしまう。
足元の草は朝露で濡れていて、踏むたびにぺちょ、ずる、と情けない音を立てた。
そのたびに、「はい、生きてます」「まだ死んでません」とでも実況されているみたいで、ちょっと嫌になる。
……あれ。
わたし、思ったより疲れてるな。
そんなことを考えているうちに、煙がほんの少し近づいた気がした。
気のせいかもしれないけど、希望なんてだいたい気のせいから始まるものだ。裏切られることも多いけど。
丘をひとつ越えたところで、視界が開けた。
平たい草地。
その真ん中に、石造りの建物の残骸みたいなものがいくつか並んでいる。壁は半ば崩れ、屋根も落ちていた。
……村、かな。
いや、村“だった”場所、かもしれない。
煙は、そのいちばん奥の建物の陰から立ち上っていた。
やっぱり誰かいる。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
生きてる人がいるかもしれない。
そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
近づくにつれて、匂いがおかしくなった。
焦げた肉の匂い。
それから、錆びた鉄みたいな、生々しい匂い。
……血だ。
身体が勝手に止まる。
崩れた壁の陰に張りつくようにして、何かが見えた。
人だったものだ。
炭化した衣服。
焼けただれた肉。
露出した骨。
煙、好きだけど。
今のは、だめな煙だった。
そのそばの地面には、深くえぐれた足跡がいくつも残っていた。
狼。いや、あの狼もどき。わたしの知ってる動物より、ずっと嫌なやつ。
あー、はいはい。
ホラー映画だったら、ここで観客が「入るな!」って叫ぶ場面だ。
でも現実のわたしには、停止ボタンも巻き戻しもない。
進むしかない。
村の真ん中には井戸があった。
水でも飲めればと思ったけれど、吊り下がっていた桶は朽ちていて、とても使えそうにない。
身を乗り出して中を覗くと、底のあたりで何かがかすかに光っていた。
……硬貨?
コインだ。
異世界でも井戸に投げる文化ってあるんだ。お願いごとでもしてたんだろうか。
明日も無事でいられますように、とか。
……駄目だったみたいだけど。
そのときだった。
背後で、草が鳴った。
がさっ。
あ、これ、知ってる。
昨日の音だ。
振り向く。
茂みの向こうに、目があった。
黒い。
あの黒い狼だ。
また来た。
逃げなきゃいけないのに、足がすぐには動かなかった。
こういうときに限って、身体って言うことを聞かない。
せめてものつもりで杖を振り上げてみる。
でも自分で見ても、まるで頼りない。あまりにも頼りなさすぎて、情けなくなるくらいだ。
狼は低く唸りながら、じりじり距離を詰めてきた。
あと三歩。
終わった、と思った瞬間。
横から灰色の影が飛び込んだ。
黒い狼が短く唸って跳ね退く。
仲間割れ、というよりは、獲物の奪い合いみたいだった。
助かった――と息をつく暇もなく、別の唸り声が重なる。
増えた。
昨日より多い。
もう嫌だな、ほんとに。
でも、目の前の二匹がもつれている今しかない。
わたしは踵を返して、また森の奥へ走った。
逃げるの、もう飽きた。
けど足は勝手に動く。
たぶんまだ、生きたいんだろう。
図々しい話だけど。
枝をかき分け、泥を蹴り、息を切らしながら走る。
右足首の痛みはどこかへ消えていた。アドレナリンって便利だな、こんなときにだけ。
後ろでは肉のぶつかるような音と、獣の唸りが混ざっていた。
平和な日本じゃまず聞かない種類の騒がしさだ。
気づけば地面が急に傾いていた。
まずい、と思ったときには遅かった。
踏ん張れない。足が滑る。天地がひっくり返る。
転がる。
ぶつかる。
息が詰まる。
ようやく止まったとき、目の前には崖があった。
上を見上げると、縁から狼もどきたちが顔を覗かせている。
下には下で、細い道みたいなものがある。でもそっちの奥からも、低い唸り声が返ってきた。
……なにここ。
わんわん王国か何かですか。
しかも全然モフれないやつ。
崖のそばには、大きな木が一本立っていた。
根を大きく地面の外へ張り出していて、屋久杉みたいな雰囲気がある。
その根元に、洞みたいな窪みがあった。
わたしはそこへ、半ば転がり込むように身体を滑り込ませた。
中は湿っていて、木の匂いがする。
土と樹液と、少し腐った葉っぱの匂い。
ああ。
これが最後の匂いかもしれないな、と思ったら、妙に落ち着いた。
外では獣の鳴き声が止まない。
わたしは、隠れているだけだ。
ごめん。
でも怖いんだ。
勇気とか正義とか、そういう立派なものは持っていない。
「生きたい」より、「死にたくない」の方が、わたしの中では少しだけ強い。
きっと、それが本音だ。
少なくとも、わたしの。
そのとき、不意に外の気配が消えた。
静かだ。
風もない。
虫の声もない。
世界が一瞬だけ停止したみたいだった。
次の瞬間、木の陰から黒い狼が姿を現した。
……やっぱり、お前か。
しつこいと嫌われるよ。
そう思ったけど、口には出なかった。
前より近い。
白い息。
剥き出しの牙。
目が、こちらだけを見ている。
あ、今度は本気だ。
逃げ場はない。
木の洞に半分身体を押し込んだまま、わたしは目を閉じた。
手探りで、お姉さんにもらったナイフを握る。
意味なんてたぶんない。
でも、何かを掴んでいると少しだけ落ち着いた。
狼が踏み込む気配がする。
音が遠のく。
時間がゆっくりになる。
……ああ。
これ、電車のときと同じだ。
スローモーション。
死ぬ瞬間って、どうしてこう丁寧なんだろう。
――人って死ぬんだな。
頭のどこかで、そんな声がした。
痛みは、まだ来ない。
怖さも薄れていく。
代わりに身体の奥が、少しだけ温かい。
……たぶん血だ。
意識がゆっくり遠のいていく。
でも、どこかでまだ笑っている自分がいた。
結局こうなるのか、って。
異世界に来ても、オチが死。
出来すぎてて、ちょっと腹が立つ。
視界の端で木漏れ日が揺れていた。
太陽が二つ。
世界の境目が滲んで、色も音も少しずつ溶けていく。
ああ、次はどこだろう。
また知らない空か。
それとも、今度こそ本当の終わりか。
――まあ、どっちでもいいか。
どうせわたしは、また目を覚ますんだろうし。
そんなことを思いながら、深く、最後の息を吐いた。
肺の中の森の匂いが抜けていって、世界が静かに裏返る。
その途中で、声がした。
──「…………いか?」
かすれていて、でもはっきりした声だった。
──「生きたいか?」




