82、完全なる端役
世の中には二種類の人間が存在する。照明の当たる舞台の上に立つ人間と、暗がりでそれを観客として眺める人間だ。
前世のわたしは、間違いなく前者側の人間だった。子役という名の特殊な労働環境で自己の承認欲求をすり減らしながら育ち、青春の大部分を台本の暗記と演出家の理不尽な要求に応えることに費やしてきた。だからこそ、異世界というファンタジーの極みのような場所に放り出されてなお、板の上に立つという誘惑には抗いがたい引力を感じてしまうのだ。
もちろん、そこに「絶品の海鮮料理を無料で、しかも合法的に貪り食うことができる」という極めて実用的なメリットが付属している事実を軽視するつもりは毛頭ない。むしろ、その食欲こそがわたしの行動原理の八割を占めていると断言しても差し支えない。
東区の魔道具屋で仕入れたポンコツ変装アイテムである手鏡をサコッシュの奥底に忍ばせ、わたしたちは真っ直ぐに劇団「青き風車」の拠点へと向かった。
街の中央に近い商業区画の一角、石造りの立派な劇場が彼らの本拠地である。表の通りには明日の新作初日を告げる派手な手描きの看板が掲げられており、大勢の市民が足を止めてそれを眺めている。娯楽の少ないこの世界において、大衆演劇というものは現代の映画や情報通信網に匹敵する極上のエンターテインメントなのだろう。
劇場の裏口から関係者専用の通路を抜け、薄暗い奈落を通り越して楽屋へと足を踏み入れると、先日魚市場で熱烈なスカウトをしてきた演出家の男、シャルルが、頭を抱えて呻き声を上げていた。
どうやら、例の魚嫌いな女優に無理やり海鮮料理を食べる演技を強要し、壮絶な失敗を繰り返している最中らしい。女優の顔色は土気色に染まり、今にも胃の中のものを床にぶちまけそうな絶望的な表情をしている。
「シャルルさん。お困りのようですね」
わたしが余裕の笑みを浮かべて声をかけると、シャルルは弾かれたように上体を起こし、大げさな身振りで天を仰いだ。
「おお、君は。魚市場の奇跡の美少女。どうしたのだ、もしや心変わりをしてくれたのか。私の演出に命を吹き込んでくれると」
「ええ、その通りです。あの時のオファー、やはりお受けしようと思いまして」
わたしが頷くと、シャルルは歓喜に顔を歪め、わたしの手を取ろうと歩み寄ってきた。しかし、その手はわたしの背後に控える統の、絶対零度を極めた氷のような視線によって空中で完全に停止した。
「ただし、条件があります」
わたしは人差し指を立てて、毅然とした態度で告げた。
「わたしが出演するのは、あくまで食事のシーンのみ。そして何より重要な条件として、そちらのお抱えの魔法使いさんによる化粧魔法は一切お断りします」
わたしの言葉に、シャルルは顔の筋肉を硬直させた。
「化粧魔法を拒否するだと。それでは、代役としての意味が失われてしまう。観客は君の顔を見て、主役の冒険者とは別人だと一瞬で見抜いてしまうぞ。舞台芸術における視覚的な連続性を破壊するつもりか」
「ご心配なく。顔の偽装に関しては、わたしが自前の魔道具で完璧に処理しますから。そちらの裏方さんには、わたしの顔にも魔力にも、指一本触れさせません。それが代役を引き受ける絶対の条件です」
強気の交渉である。
統が懸念していた「見ず知らずの魔法使いに魔力の波長を読まれるリスク」を完全に遮断するための布石だ。こちらが用意した魔道具ならば、外部からの魔力干渉を一切受けることなく顔を変えることができる。
シャルルはしばらくの間、顎に手を当てて深刻に悩み込んでいたが、やがて背後で魚の匂いを嗅いだだけでえずいている正規の女優を一瞥し、深い諦めの息を吐き出した。
「……わかった。君の魔道具とやらを信じよう。背に腹は代えられないからな」
こうして、わたしの異世界における舞台デビューが正式に決定した。
となれば、次はプロの役者としての準備である。わたしは早速、演劇の基本であるリハーサルの段取りについて尋ねた。
「それで、事前のリハーサルはいつ行いますか。わたしも通し稽古に参加して、他の役者さんとの間合いや、料理を口に運ぶタイミングを身体に覚えさせたいのですが」
わたしの意気込みに対し、シャルルは極めて事務的な手で台本を叩いた。
「いや、君が稽古に参加する必要はない」
「えっ。必要ないって、どういうことですか」
わたしは予想外の返答に目を丸くした。
「舞台に立つ以上、最低限の段取りは必要でしょう。本物の海鮮丼、煮付け、焼き魚、お魚三昧のフルコースを実際に食べて、その圧倒的な美味さを表情筋の隅々まで行き渡らせる練習をしなければ、観客の心は打てません」
わたしが熱弁を振るうと、シャルルはひどく申し訳なさそうな顔をした。
「いや、君の熱意は買うが、稽古で本物の料理を出す予算など我が劇団にはないのだよ。リハーサルでは、空の器を使った完全なパントマイムを行ってもらうことになる」
「パントマイム……」
わたしの脳内で、豪華絢爛な海鮮料理の映像が音を立てて崩れ去った。空の茶碗を前に、架空の魚を食べて感動の涙を流せというの。そんな空虚な作業に、わたしの貴重なカロリーと精神力を消費できるはずがない。
「ですから、君は本番のその瞬間だけ舞台に上がってくれればいい。セリフも一切ないからな」
「セリフもないんですか」
「ああ。演出の段取りはこうだ。上手にいる主役にスポットライトが当たる。その直前、一瞬の暗転の間に君が主役と入れ替わる。シーンは海の幸の素晴らしさを伝えることがメインなので、食堂の店主役が長々と料理の説明をしながら配膳してくる。君はそれに合わせて、ただひたすらに美味しそうに食べ続けてくれればいい。説明が終われば再び照明が舞台中央に戻るので、その隙に君は元の女優と交代して退場だ」
なるほど、完全なるエキストラ扱いである。
しかし、シャルルの口から出た次の言葉が、わたしの不満を完全に吹き飛ばした。
「ちなみに、本番で提供される料理は、港町でも随一と名高い『料亭マルマン』が全面協力で用意してくれる。我が劇団とのタイアップ企画でね。客席には料亭の宣伝効果も抜群というわけだ。君には、そのマルマンの最高級の魚料理を堪能してもらうことになる」
料亭マルマン。その響きだけで、わたしの口腔内に唾液が溢れ出した。パントマイムの屈辱など一瞬で消え去り、明日の本番へのモチベーションが成層圏まで到達するのを感じた。
「わかりました。リハーサルは不要です。本番一発勝負で、料亭マルマンの料理の価値を限界まで引き上げる至高の食事シーンをお見せしましょう」
わたしが力強く宣言すると、シャルルは満足そうに頷いた。
打ち合わせを終えた後、わたしたちは舞台の構造を把握するという名目で、観客席の最後列に居座る許可を得た。
表向きは熱心な代役女優の事前学習であるが、真の目的は、この劇団という組織の内部構造を密かに探ることにある。
舞台の上では、冒険者たちが悪徳な借金取りの用心棒たちと激しい立ち回りを演じるクライマックスのシーンが稽古されていた。
しかし、そのアクションシーンを数分ほど観察しているうちに、わたしの背筋に冷たい水滴が滑り落ちるような奇妙な違和感が生まれ始めた。
彼らの動きは、何かが根本的におかしいのだ。
舞台における殺陣というものは、あくまで「観客にどう見せるか」を最優先に構成される。大きく振りかぶり、躍動感のある動きで空間を使い、安全な距離を保ちながら刃を交えるのが鉄則だ。
だが、目の前で稽古をしている役者たちの体捌きは、それとは決定的に異なっていた。なんというか、迫力がありすぎるのだ。演技という枠組みを超えた、もっと生々しくて冷たい何かが、彼らの動作の端々から漏れ出している。
「……ねえ、アリアさん」
わたしは、隣で腕を組んでいる王国監査院の密偵に向かって、唇の動きを最小限に抑えながら小声で話しかけた。
「あいつらの動き、なんだかすごく変じゃないですか。舞台役者にしては、妙な凄みというか、本気の殺気みたいなものを感じるんですけど。わたし、時代劇の殺陣を見たことは何度もありますけど、あんな血生臭い空気は初めてです」
アリアさんは視線を舞台に向けたまま、僅かに顎を引いて同意を示した。
「ええ、あなたの勘は正しいわ。あいつら、普通の役者じゃない」
堤門 統を主人公にしたスピンオフ作品【堤門探偵事務所】連載開始しました。
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