8、(5)車中の少女は腕を振る
馬車は、昼下がりの光をふんだんに浴びながら、のっそりと道を進む。
轍のたびにガタン、ガタンと、まるで自分の存在を確かめるように鳴る。砂埃が金色の霧みたいに立ちのぼり、それを陽光が優しく撫でていた。
遠くの地平線は、蜃気楼のようにゆらいで見える。草原はどこまでも続き、時折、岩肌が背骨のように突き出していた。風は甘く、少し塩気を含んでいる。
フィーネは前を走りながら、ちらりと馬車を振り返った。
荷台には、昨日拾った少女が乗っている。
いや、拾ったという表現は少し乱暴かもしれない。けれど他に言いようがないのだ。森の外れ、狼どもの足跡のすぐそばで、泥だらけの格好のまま立ち尽くしていた。泣いても叫んでもいない。ただ、ぽつんと立っていた。世界の隙間から落ちてきたみたいに。
──あのまま放っておけば、朝には骨も残らなかっただろう。
少女は今、馬車の中で膝を抱えて座っていた。
腰を下ろす場所もろくにない荷台だ。樽が三つ、木箱が十ばかり。乱雑に積まれているのに、妙に座る場所だけは空いている。
肩を縮め、スリット越しに外を覗いている。表情は読めない。だが、その視線の先に、微かに“期待”のようなものが見えた気がして、フィーネは少しだけ唇の端を上げた。
ディルクが、御者台で鼻を鳴らした。
「なあフィーネ、この嬢ちゃん、何者だと思う?」
「さあね。服も布地も、見たことがないわ。どこの織りでもない」
「匂いが違う。金属の匂いだ」
「金属?」
「あの鞄じゃ。革でも布でもない。冷たくて、指が滑る」
「……確かに」
彼女の手荷物には、どれも“少し未来の匂い”がした。
精緻で、無駄がなく、やけに洗練されている。
だが同時に、どこか頼りない。使い捨ての香り。まるで人の命みたいだ、とフィーネは思った。
手綱を握るゲルトが、ぼそりとつぶやいた。
「お前の勘では、どこの出身だ?」
「勘って言われてもね……。ここじゃない。たぶん、地図にもない」
「異国か?」
「それよりもっと遠い。……空の向こう」
軽口のつもりで言ったのだが、自分で口にした瞬間、喉にひっかかるような違和感が残った。
“空の向こう”という響きが、妙に現実味を帯びていた。
言葉が、少女の仕草や瞳の奥の焦点の合わなさと、妙に噛み合っていたのだ。
ディルクが立ち上がり、ぶつぶつ言いながら荷台へ向かった。
好奇心が勝ったのだろう。ドワーフという生き物は、大抵そういう順番で動く。
ディルクが幌をくぐって顔を出すと、少女は外を覗き込んでいた。
「なんじゃ、景色が見たいのか?」
言葉が通じないのはわかっている。それでも口に出してしまうのは癖みたいなものだ。
返事の代わりに少女が目を丸くする。幌に指を伸ばすので、ディルクはそれを察して、幌をくるりと巻き上げた。
風が、荷台の中を通り抜ける。埃と太陽と一緒に、外の世界が流れ込んできた。
少女は小さく「おお」と声を上げて、笑った。
あの笑顔を見た瞬間、ディルクは「まぁ、悪くない拾いもんだ」と思った。
フィーネが横を並走しながら、声をかけた。
「ディルク、幌、外したの?」
「ゲルトもおるし、盗賊の気配は奴が察知するじゃろ。むしろこっちの方が見晴らしがええ」
「了解。自己責任でね」
「わしの人生、全部自己責任じゃ」
フィーネは笑って前へ戻った。
馬の蹄が小気味よく響く。
少女は荷台の縁に手をかけ、右を見て左を見て、後ろを振り返り、最後にはローデリヒに手を振った。
ローデリヒ──彼は寡黙で、笑うことの少ない男だ。反応はなかった。
それでも少女は、諦めたように肩をすくめて、また風を眺めた。
ディルクはそんな様子をおかしそうに見ていたが、ふと少女の手元に目を留めた。
「嬢ちゃん、その筒はなんじゃ?」
少女は一瞬戸惑い、それから差し出した。
手に取ってみて、ディルクは眉を上げた。
軽い。だが、しっかりしている。材質は金属のようだが、鉄ではない。触ると妙に滑らかで、ひやりとする。
どこにも継ぎ目がなく、表面は見事な曲線を描いている。一本の棒から削り出したような精度だ。
水の音がする。水筒だろう。だが、蓋らしきものが見当たらない。
少女がなにやらひねる仕草をする。
ディルクも真似てみると、カチリと音を立てて上部が外れた。
見事な螺旋溝。加工精度が恐ろしく高い。
これを造るには、神級の職人でも難しいだろう。
ディルクは指先で螺旋をなぞりながら、思わずため息をついた。
「……わしらの鍛冶が、まだ赤子に思えるわ」
少女は彼の顔を見上げて、小さく笑った。
言葉は通じないが、笑顔の意味は伝わる。
そういう瞬間だけは、世界が一つになる気がする。
ディルクが水筒を返そうとすると、少女は少し悩んだ様子を見せながら受け取った。
そして、鞄から何かを取り出した。
銀色に光る小さな棒と、折りたたみ式の刃物だ。
少女が差し出しながら、つたない発音で言った。
「あげる。ありがと」
ディルクは受け取って、目を白黒させた。
棒を押すと、先から黒い芯が出た。
「……おお? こ、これは……」
少女がジェスチャーで何かを書く真似をする。
ディルクは理解した。「描ける道具」だ。
そしてもう一方の刃物を開くと、これまた緻密な構造で、金属の継ぎ目がまるで見えない。
思わず感嘆の声が漏れた。
「文明の……暴力じゃの」
フィーネが聞いていたら、きっと笑っただろう。
ドワーフは時に、鉄よりも素直に感情を出す。
ディルクはしばらくそれらをいじくり回してから、少女に親指を立てた。
少女も、同じように親指を立てた。
それを見て、ディルクは心の中で苦笑する。──どうやらこのジェスチャー、万国共通らしい。
夕暮れ前、馬車は街道沿いの広場に到着した。
石の小屋がいくつも点在している。古い軍の野営地の跡らしい。
空には二つの太陽が傾き、影が二重に伸びていた。
ゲルトが馬を止め、フィーネが少女を降ろす。
少女はまだ足取りがおぼつかないが、それでも周囲を見回して「わぁ」と息を呑んだ。
何もない場所でも、初めて見る者には宝の山に見えるものだ。
ディルクとローデリヒはテントを張り始め、フィーネは馬の世話をする。
少女は一瞬ためらったが、すぐにディルクの真似をして木箱を運び始めた。
手伝う気らしい。
その様子を見て、フィーネは小さく笑った。
──この子、根は悪くない。
それでも調理の手伝いだけは断った。
というのも、彼女が包丁を握る姿を想像しただけで、未来が血まみれに見えたからだ。
野営の準備をしていると、ご大層な馬車が入って来た。
家紋は付いてないがおそらく貴族の馬車だろう。
理不尽な言いがかりをつけられなければ良いがと、フィーネがみていると、馬車は管理小屋へ進んで行った。
騎士が一人ディルクたちのもとに向かった。
二言三言会話を交わしただけで離れて行った。こちらの状況を確認しただけだろう。
ゲルトが偵察に出ていて良かった。
面倒事は避けるに越した事はない。
焚き火の香りが夕闇に混じる。
スープが煮え、パンが炙られる。
少女はパンをどう食べていいかわからず、半分パニックの顔で固まっていた。
その様子を見かねて、フィーネがナイフでパンを小さく切ってやる。
すると少女はそのナイフを抱えるようにして大事にした。
まるで宝石でももらったみたいに。
フィーネは少し照れくさくなって、「あげる」とだけ言った。
言葉は通じなくても、意図は伝わった。少女は嬉しそうに何度も頷いた。
夜が来た。
空には双子の月が昇り、焚き火の赤が揺れていた。
ディルクとローデリヒも寝る準備を始めている。
ゲルトが最初の見張りに立つようだ。
少女はフィーネと同じテントで眠った。
言葉が通じない夜は、静かだ。
ただ、眠りに落ちる寸前、フィーネはふと考えた。
──この子、本当に“ここ”に来るはずじゃなかったんじゃないか。




