79、まとわりつく甘い影
問屋の入り口の方から、嵐のような勢いで足音が近づいてきた。
「リクおじちゃーん! できたよ、ついに完成したよ!」
元気な、というより鼓膜を直接揺らすような甲高い声と共に、一人の少女が飛び込んできた。
年齢は十歳か、十一歳くらいだろうか。色素の薄い茶色の髪を二つ結びにし、動きやすそうな短い丈のワンピースの上から、小麦粉や砂糖で汚れまくったエプロンを身につけている。
まるで、砂糖壺の中から飛び出してきたような、甘い匂いを全身に纏った活発な少女だ。
「おお、アキ。今日は随分と早いな。ついに新しい菓子の試作品が完成したのか」
リクローズが、先ほどの凄みを一瞬で消し去り、孫娘を見るような優しい顔になって少女を迎えた。
「そうだよ! おじちゃんがこの前分けてくれたテンペタ産の高級茶葉を、お父さんに内緒でこっそり生地に練り込んで焼いてみたの! 名付けて『ボーダー特製・海風と茶葉のパウンドケーキ』だよ!」
アキと呼ばれた少女は、小脇に抱えていた藤のかごから、布に包まれた焼き菓子を取り出し、誇らしげにテーブルの上に置いた。
そして、わたしと統の存在に気づくと、大きな目をぱちくりとさせた。
「おや、お客さん? ごめんね、騒がしくしちゃって。わたしはアキ。そこの大通りにある『スガル屋』って菓子屋の娘。お姉ちゃんたちは?」
なるほど、菓子屋の娘か。紅茶党であるリクローズの元へ入り浸っては、紅茶に合う新しい菓子の研究に情熱を燃やしているらしい。魚問屋に菓子屋の娘が通い詰めるという構図もかなり異常だが、この街の住人は全体的に自分の趣味嗜好に対するブレーキが壊れている人間が多いようだ。
「わたしは七色。こっちは弟の……」
わたしが統を紹介しようとした瞬間、アキの視線が統の顔に釘付けになった。
彼女の大きな瞳が、さらに限界まで見開かれる。
そして、まるで空から雷が落ちてきたかのような衝撃を受けた表情で、統の目の前まで一気に距離を詰めた。
「ねえ、君、名前なんていうの」
アキの声が、妙に熱を帯びている。
統は、突如としてパーソナルスペースを侵略してきた少女に対し、極めて不快そうな、氷点下の視線を向けた。
「……統だ」
その短い返答を聞いた瞬間。
アキの顔が、太陽が爆発したかのような満面の笑みに変わった。
「スバル! スガル屋のアキと、スバル君! 名前が似てる! 一文字違いだ! これって運命の出会いじゃないの!」
アキは両手を高く突き上げ、歓喜の声を上げた。
わたしは自分の耳を疑った。
名前が一文字違いだから運命の出会い。
そんな小学生の低学年レベルの、強引極まりない理屈で、この少女は目の前にいる七千歳の吸血鬼(精神年齢は完全に老人)に対して、一切の躊躇なくアプローチを開始したのだ。
「ねえねえスバル君、どこから来たの? 好きな食べ物は何? 甘いものは好き? わたしが作ったこのケーキ、一番最初に食べてみてよ!」
アキは統の隣に無理やり椅子を引き寄せ、物理的な距離を完全にゼロにしてまとわりつき始めた。
統の顔面から、全ての感情が抜け落ちていくのがわかった。
無表情というよりは、システムエラーを起こして思考回路がフリーズした状態だ。
彼はこれまで、国家の陰謀、狂信的なカルト、傲慢な貴族、そして自称・夜の支配者という名の痛い吸血鬼など、数々の修羅場を冷静に対処してきた。彼の圧倒的な力と知恵の前に、どんな強敵も赤子同然だった。
しかし。
何の悪意もなく、純度百パーセントの好意と好奇心だけで物理的にまとわりついてくる十一歳の少女という存在は、彼の七千年のデータベースの中にも対処法が存在しなかったらしい。
冷たい視線で威圧しても、アキは「照れてるの? 可愛い!」と強引にポジティブ変換してしまう。
沈黙を貫いても、アキは一人で永遠に質問と自己完結を繰り返している。
暴力で排除するわけにもいかず、精神操作の魔法を使うには相手が純粋すぎる。
「七色……。この騒音発生装置を、なんとかしろ」
統が、助けを求めるような、いや、明確な殺意を込めたテレパシーに近い低い声をわたしに向けて放った。
だが、わたしは紅茶のカップを口元に運び、至福の表情でその香りを楽しみながら、ゆっくりと首を横に振った。
「あら、いいじゃない。同年代のお友達ができて。弟が仲良く遊んでいる姿を見るのは、姉として喜ばしい限りだわ。たっぷり親睦を深めなさいな」
最高の見世物である。
普段は高みから見下ろしている生意気な弟(仮)が、無垢な少女の猛烈なアタックの前に防戦一方になっている姿など、お金を払ってでも最前列で見たいショーだ。わたしは絶対に助け舟など出すつもりはなかった。
「ほらスバル君、あーんして!」
アキが、切り分けたパウンドケーキをフォークに刺し、統の口元へ強引に押し付けている。
統は完全に全身の筋肉を硬直させ、口を真一文字に結んで抵抗を試みていたが、アキの「食べてくれないと泣いちゃうかも」という物理的な圧力と精神的な脅迫の前に、ついに諦めたようにわずかに口を開いた。
パウンドケーキが、統の口の中に放り込まれる。
咀嚼する彼の顔は、まるで苦い薬を無理やり飲まされている患者のようだった。
「どう? 美味しい?」
期待に満ちた目でアキが見つめる。
統は数回だけ咀嚼し、嚥下したあと、極めて事務的な、温度のない声で評価を下した。
「茶葉の風味が弱すぎる。生地の甘さが前面に出すぎていて、せっかくのテンペタ産の香りが完全に相殺されている。さらに、焼き加減が甘く中心部の水分量が多い。菓子としての完成度は著しく低いと言わざるを得ない」
容赦のない、完全なる酷評。
普通なら、ここで少女は泣き出し、二度と口をきいてくれなくなる場面だ。統もそれを狙って、あえて残酷な事実を叩きつけたのだろう。これで厄介払いは完了する、と彼の目には書いてあった。
しかし、アキはボーダーの職人街で育った少女である。彼女の打たれ強さとポジティブさを、統は完全に読み違えていた。
「そっか! スバル君、すっごく味覚が鋭いんだね! お父さんと同じこと言われたよ! やっぱり運命だ! ねえ、次はもっと茶葉を多くして焼いてみるから、明日も試食に付き合ってね! 約束だよ!」
アキは全くめげることなく、逆に統の酷評を「的確なアドバイス」として受け取り、さらなる情熱を燃やし始めてしまった。
統の目が、完全に虚無の世界へと旅立った。
彼の長い人生において、これほどの敗北感を味わったことは、おそらく片手で数えるほどしかなかっただろう。
わたしは腹を抱えて笑い転げそうになるのを必死に堪えながら、リクローズが淹れてくれた二杯目の紅茶を静かに飲み干した。
パウンドケーキは、統が言った通り少し甘すぎたが、紅茶の渋みと合わせることで絶妙な調和を生み出していた。
「時に、ドレミ君」
リクローズが、騒がしい二人のやり取りを見守りながら、再び声のトーンを落として語りかけてきた。
「君の推理が正しいかどうか、それを証明するためには、まずはあの方を倒れさせた『毒』の正体を探る必要があるだろう。……もし、その成分や出所を正確に調べたいのであれば、東区にある『青の歯車』という魔道具屋を訪ねてみるといい」
「青の歯車……」
昨日、マタのおじさんが「まともな魔道具が見たいなら行け」と教えてくれた店の名前だ。
「あそこの店主はひどい偏屈だが、この街に入ってくる怪しげな薬品や道具の裏事情に最も精通している男だ。マタの紹介状があるのなら、話くらいは聞いてくれるだろう」
「ありがとうございます、リクローズさん。さっそく行ってみます」
わたしは重要な情報を得たことに感謝し、席を立ち上がった。
ソーク・イマウェルの真意。そして、この街の地下でうごめく巨大な陰謀の正体。
それを暴くための鍵が、そこにある気がした。
「さあ、行くわよ統。アキちゃんにまた明日ねって挨拶しなさい」
わたしが声をかけると、統は椅子から弾かれたように立ち上がり、一切の振り返りもせずに猛烈な速度で問屋の出口へと向かっていった。
「あ、待ってよスバル君! 明日の午後、絶対にここに来てね! わたし待ってるから!」
アキの元気な声が、魚市場の喧騒を突き抜けて追いかけてくる。
逃げるように市場を後にする統の後ろ姿を見ながら、わたしは確信した。
政治の陰謀よりも、魔法の戦闘よりも、統にとって最も恐ろしい存在は、恋する十一歳の少女の無敵のエネルギーなのだと。
ボーダーの街の深い闇に踏み込む直前の、奇妙に甘くて、そして少しだけ愉快な昼下がりの出来事であった。




