77、壁の奥の三十年
「これ……嘘でしょ。歴史がひっくり返るわよ」
彼女は信じられないものを見るような目で、書類とわたしたちを交互に見比べた。
アリアさんの震える声に、わたしも思わず身を乗り出して書類を覗き込んだ。
そこには、精緻な都市計画の図面と、莫大な金額の移動を示す帳簿、そして何人もの署名が記された密約書が含まれていた。
わたしにはこの世界の文字を完全に読み解く能力はない。統が視線を走らせ、瞬時に内容を翻訳して音声に変換した。
「かつてこの街ボーダーは、対外貿易の拠点として繁栄していた。だが、隣接する海と川を繋ぐ水路の付け替え工事により、土砂が意図的に堆積するよう誘導された。結果として大型船の入港が不可能となり、貿易の機能は競合都市であるシンドアへと移ることになった」
統の声は、歴史の教科書を朗読するような無機質さだった。
「世間一般では、これを自然環境の変化や、治水工事の失敗と認識しているようだが、この書類が示す真実は異なる。当時の評定組織の一部が、競合都市シンドアの商人たちから莫大な賄賂を受け取り、自らの街の港湾機能を意図的に破壊する工事を強行した。完全なる売国行為の記録だ」
言葉の意味を咀嚼するまでに、数秒の時間を要した。
街の衰退。大型船が入ってこない港。
それが、自然の摂理ではなく、街のトップに立つ人間たちの強欲によって意図的に引き起こされた人災だったというのか。
自分たちの街の未来を、他都市の資本に売り渡したのだ。
「ちょっと待って」
わたしは頭の中を整理しながら、書類の束を指差した。
「何十年も前の話なんでしょ。当時の連中はもう死んでるんじゃないの。歴史的な大スキャンダルだとしても、今の権力争いに直接関係するの」
「それが、関係大ありなのよ」
アリアさんが、書類の最後尾にある一枚の羊皮紙を抜き出した。そこには、賄賂を受け取った当時の商人たちの血判と署名が並んでいる。
「この署名の中に、見覚えのある名前がいくつかあるわ。そして、最も高い金額を受け取り、この計画を主導した男の名前は……イマウェル」
その名前に、心臓の奥が冷たい手で掴まれたような感覚を覚えた。
イマウェル。
現在、この街の三十六人の商人の頂点に君臨し、権力を独占している筆頭商人、ソーク・イマウェル。
「ソークの父親、あるいは祖父の世代の記録だろう。だが、連綿と続く名家の当主が、街を売った裏切り者の血筋だという事実が公になれば、現在の筆頭商人としての地位は一瞬で吹き飛ぶ。権力基盤の崩壊どころか、一族郎党が街の住人から吊るし上げられる事態になるだろう」
統が、事の重大さを一切の感情を交えずに解説する。
つまり。
街を売り飛ばした裏切り者の子孫が、その過去を隠蔽したまま何十年も街のトップに居座り、今なお権力を拡大しようとして他の商人を弾圧しているということだ。
そして、この工房の持ち主である反ソーク派の商人は、何らかの理由でこの過去の証拠を入手し、壁の中に隠し持っていた。ソーク派はそれを探し出すため、あるいは隠し持っていること自体を察知して、警告として工房を爆破した。
点と点が繋がり、おぞましい一本の線となる。
「……最低ね」
わたしの口から、腹の底に溜まった重い感情が言葉となって漏れ出した。
「自分たちの利益のために街の未来を潰しておいて、それを知らん顔で隠したまま一番偉そうに振る舞ってるなんて。ダイスロープの公爵も酷かったけど、身内を売る分、こっちの方が性質が悪いわ」
正義感という言葉で片付けるには、あまりにも泥臭い嫌悪感だった。
ダイスロープで出会った、理不尽に耐えながら懸命に生きる人々の顔が重なる。このボーダーの街にも、港が廃れたことで職を失い、人生を狂わされた人間が無数にいるはずだ。その犠牲の上に成り立っている権力など、存在を許していいはずがない。
「証拠を握りつぶして何十年も黙ってた人間が、今も街のトップに居座ってるってことよね」
わたしは、握りしめた拳の関節が白くなるのを感じながら、隣の統を見た。
「そういうことだ。だが、これは過去の因縁であり、我々の旅の目的とは無関係だ」
統は、極めて冷静に事実を切り分ける。彼にとって、人間の愚行など道端の石ころと同義である。
「さて、どうする。この証拠を監査院の密偵である彼女に任せ、我々は次の街へ向かうか。それとも、また厄介事の中心に飛び込むか。選択権はお前にある」
統の問いかけは、試しているようでもあり、すでに答えを知っているようでもあった。
「……決まってるじゃない」
わたしは、自分の中に燃え上がり始めた確かな熱を感じながら、書類の束をアリアさんの手に押し付けた。
「アリアさん、これ、公式の監査院のルートで上に報告したらどうなるの。また『政治的な配慮』とか言って、適当に揉み消されるんじゃないでしょうね」
王都のウイロウ侯爵の狸親父ぶりを思い出し、わたしは疑念をぶつけた。
アリアさんは、書類の束を胸に抱きしめ、鋭い視線をわたしに向けた。
「……保証はできないわ。王国中枢にとって、ボーダーの安定は重要よ。三十年分の膿を一気に噴き出させれば、街の経済が完全に停止する。上がそれを恐れて隠蔽工作に走る可能性は十分にあるわ」
「やっぱりね。大人の事情ってやつね」
わたしは深く息を吸い込み、そして吐き出した。
「だったら、隠蔽できないくらい派手にぶち撒けるしかないわね。街の住人全員が、自分たちの生活を誰に奪われたのかを理解できる形で」
「本気で言っているの。相手は街を完全に掌握している筆頭商人よ。私設の軍隊や、腕利きの暗殺者を雇うくらいの資金力はあるわ」
アリアさんが警告するが、わたしの決意が揺らぐことはない。
「だから何。最強のカードがあるのよ。お金で雇える程度の暗殺者なんて、寝起きのあくびで吹き飛ばせるわ」
わたしは統の肩を軽く叩いた。統は無言のまま、迷惑そうにわたしの手を払いのけた。
その日の夜、わたしたちは宿の部屋で作戦会議を開いた。
目指すは、筆頭商人ソーク・イマウェルの失脚、および過去の売国行為の完全なる暴露。
しかし、こちらが動くよりも早く、事態は向こうから劇的な展開を見せてわたしたちの前に現れることになる。
翌日。
街の中心に位置するグレースビス教会とツクリード神殿の中間地点、三十六人の商人が集う評定所において、月に一度の公開集会が開催される日であった。
市民も傍聴が許されるこの集会に、わたしたちは情報収集のために紛れ込んだ。
円形の議事堂の中央に設けられた壇上。そこには、豪奢な衣装を身に纏った初老の男が立っていた。
彼こそが、筆頭商人ソーク・イマウェル。
白髪を後ろで束ね、威厳に満ちた表情で語るその姿は、街を売った一族の末裔にはとても見えない。自信に溢れ、己の正当性を微塵も疑っていない権力者の顔だ。
「市民の皆様。我がボーダーの発展のため、新たな流通ルートの開拓は急務であり……」
彼が淀みない演説を続けていた、まさにその瞬間である。
ソーク・イマウェルの声が、突如として途切れた。
彼は自分の喉を掻きむしるように両手で押さえ、顔を真っ赤に染め上げたかと思うと、白目を剥いて壇上に倒れ込んだ。
議事堂は一瞬の静寂に包まれ、直後に悲鳴と怒号の渦に飲み込まれた。
泡を吹いて痙攣する筆頭商人。駆け寄る側近たち。
誰の目にも明らかだった。彼が口にしていた水差しに、何らかの猛毒が仕込まれていたのだ。
「毒だ。医者を呼べ」
統が冷静な声で状況を分析する。
騒然とする議事堂の中で、すぐさま警備の兵士たちが動き出した。彼らは迷うことなく、傍聴席の最前列に陣取っていた一人の男を取り押さえた。
その男は、昨日わたしたちが改修工事を手伝った工房の持ち主であり、反ソーク派の急先鋒として知られる中堅商人であった。
「離せ。私は何もしていない。これは陰謀だ」
男が叫ぶが、兵士たちは彼を地面に押さえつけ、強制的に連行していく。
誰もが納得する構図であった。
権力闘争の果てに追い詰められた反対派が、起死回生の手段として暗殺を決行した。動機も機会も十分にあり、その場で取り押さえられたのだから、事件は即座に解決したも同然だ。
だが、わたしは連行されていく男の顔を、その目を、はっきりと捉えていた。
そこにあるのは、暗殺を成し遂げた狂気でも、捕縛された絶望でもない。
純粋な「驚愕」と、自分がなぜ捕まっているのか理解できない「混乱」の色だった。
「……おかしいわ」
わたしは、群衆の波に揉まれながら呟いた。
「あの人、絶対に毒なんて盛ってない。本当に自分が何に巻き込まれたのか分かってない顔だった」
「演技の可能性も否定できないがな」
統が冷や水を浴びせるように言う。
「わたしを誰だと思っているの。何百回も嘘泣きと冤罪のシーンを演じてきた、プロの女優よ。本物の驚きと、計算された演技の違いくらい、見ればわかるわ」
わたしの直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
ソーク・イマウェル暗殺未遂。
この事件は、単なる権力闘争の末路ではない。
誰かが、意図的にこの状況を作り出している。反ソーク派を完全に排除し、同時に過去の川の付け替え問題の証拠を永遠に闇に葬るための、極めて悪辣で計算高いシナリオ。
「正義の話をするなら、まず自分が何者かを正直に言ってほしいわね、筆頭商人さん」
わたしは、担架で運び出されていくソーク・イマウェルの姿を睨みつけながら、確信に近い疑念を抱いていた。
本当に毒を盛られたのか。
それとも、毒を盛られたという事実すら、彼自身の描いた台本の一部なのか。
三十年分の膿が、今まさにこの街全体を覆い尽くそうとしている。
自治都市ボーダーの本当の暗部との戦いが、ここから始まろうとしていた。




