72、「芸術の揺り籠」は迷宮の奥に
この世界に転生(あるいは転移、もしくは悪質な神様の気まぐれ)してからというもの、わたしの人生観は根本から揺さぶられ続けているわけだが、都市計画という概念に対する考え方もその一つだ。
自治都市ボーダーは、事前情報によれば見事な碁盤の目状に整備されているという話だった。碁盤の目。なんと理路整然とした、迷子とは無縁の響きだろう。右に曲がっても左に曲がっても、必ずどこかの交差点に出る。合理性の極みであり、都市開発の模範解答だ。
しかし、実際にその碁盤の目のど真ん中に放り込まれてみると、人間がいかに曖昧な視覚情報に頼って生きている生き物であるかが、骨の髄まで理解できる。
すべての角が同じ角度で曲がっており、すべての路地が同じ幅で果てしなく伸びている。目印になるような不自然な曲線や、理不尽な行き止まりが存在しない。それはつまり、自分が今どこにいるのか、空間的な位置関係を直感で把握できないという恐ろしい事態を意味していた。
そこに拍車をかけるのが、この街の住人たちが標準装備している「イケズ」という名の特殊技能である。
「すいません、北区第四通り裏の、マタさんの鍛冶工房へ行きたいんですけど」
アリアさんが、道を歩いていた初老の婦人に声をかけた時のことだ。婦人は、アリアさんの長旅で埃を被ったマントと冒険者風の出で立ちを、頭の先から足の先まで注意深く値踏みするように眺め回し、口元を扇子で隠しながら答えた。
「おやまあ、王都からいらっしゃった冒険者様ですか。それはそれは。マタさんの工房なら、この道を真っ直ぐ北へ向かって、三つ目の角を西に折れて、さらに二つ目の路地を入ったところですけれど……ああ、でも王都のお上品な方には、あの辺りの空気は少々泥臭すぎるかもしれませんねえ。お召し物も、これ以上汚れると可哀想ですし。東の大通りを迂回なさった方が、気分良く歩けると思いますよ」
極めて丁寧な言葉遣いの裏に、致死量の毒が仕込まれている。
要するに「お前らみたいな薄汚い余所者は職人街の裏路地なんか歩くな」という排他的なメッセージを、何層にもオブラートで包んで投げつけてきているのだ。
アリアさんのこめかみに青い血管が浮かび上がるのが、隣にいるわたしにもはっきりと見えた。
しかし、彼女は一応大人であり、身分を偽って潜入している手前、ここで問題を起こすわけにはいかない。沸点に達しそうな怒りを不自然な笑顔でコーティングし、婦人に礼を言って歩き出した。
だが、教えられた通りに進んでも、そこにあるのはパン屋の裏口だったり、見知らぬ魔道具屋の資材置き場だったりした。
仕方なく別の住人に道を聞くと、今度は「西へ向かって南に折れる」という、先ほどとは全く逆のルートを教えられ、その際にも「王都の頑丈な靴なら、多少道が悪くても平気でしょう」という不必要な嫌味をセットで頂戴した。
彼らは意図的に嘘を教えているわけではないらしい。ただ、自分たちの持つ「地元民にしかわからないローカルルールの道」を、余所者向けに変換する際に、特大の嫌味というノイズを混入させないと気が済まない病気なのだ。
「……今夜の報告書に、この街の現地民の協力度は最低ランクだと書き殴ってやるわ」
アリアさんが、歯の隙間から呪詛を吐き出した。
後ろを歩く獣人のベルロウさんは、鼻を覆って周囲の魔力の排気臭に顔をしかめている。ノッピーニオさんに至っては、完全に表情筋の動きを停止させ、機械のように足だけを動かしていた。
王国監査院の優秀な猟犬たちが、地方都市の複雑な路地と陰湿な住民性によって、確実に精神を削られている。
ちなみに、わたしの最強の弟(仮)である統は、この惨状を完全に無視し、ショーウィンドウに飾られた無意味な魔道具の構造を観察することに思考リソースの全振りをしていた。彼にとっては、他人が道に迷おうが嫌味を言われようが、自分の知的好奇心を満たすこと以外の事象はすべて背景の書き割りと同じなのだ。
迷路のような職人街を彷徨うこと一時間。
太陽が容赦なく頭上から照りつけ、わたしの吸血鬼ボディでさえ少しばかり面倒くささを感じ始めた頃、ようやく目的の場所に辿り着いた。
『北区第四通り裏・鍛冶工房マタ』
消えかかった文字でそう書かれた看板が、今にも崩れ落ちそうな木造の建物の前にぶら下がっていた。
しかし、そこを工房と呼ぶには、あまりにも想像力が試される光景が広がっていた。
建物の前には、赤錆の浮いた金属片、使い道のわからない歯車、曲がった剣の柄、そして何かの機械の残骸が、小山のように積み上げられているのだ。控えめに言って不法投棄の現場であり、厳しく言えば産業廃棄物の最終処分場である。
「ここ……本当に工房なの。ゴミの集積所の間違いじゃないの」
わたしが率直な感想を口にすると、廃棄物の山の奥から、野太く、そして猛烈に不機嫌な声が響いてきた。
「誰がゴミの集積所だ。ここは芸術の揺り籠であり、凡人には理解できない革新の最前線だ」
金属の山が崩れ、中から一人の男が姿を現した。
身長はわたしの腰のあたりまでしかないが、肩幅はわたしの二倍はありそうな筋骨隆々の体格。顔の半分を覆う見事な髭には、油と煤がこびりついている。ドワーフ族だ。
彼こそが、ダイスロープの偏屈な老技師リベットが唯一認めた鍛冶師、マタその人だった。
マタは、分厚い革の腕抜きで額の汗を拭いながら、わたしたち一行を胡散臭そうに睨みつけた。
「王都風の冒険者に、得体の知れない子供が二人。何の冗談の寄せ集めだ。悪いが、帰ってくれ。ウチにはお前らみたいな観光客や、半死半生の冒険者に売るような退屈なモンはねえよ。俺の造る武器は、選ばれた達人のみが扱える究極の芸術品ばかりだからな」
初対面の挨拶としては、ボーダーの住人の中でも群を抜いて非友好的だった。
だが、わたしはサコッシュの中から一通の手紙を取り出し、マタの鼻先に突きつけた。リベットのおじさんから預かった紹介状だ。
マタは不審そうにその封蝋を睨みつけ、やがて手紙をひったくると、乱暴に封を切った。
目を細めて文面を読んでいる間、彼の顔の皺が複雑に動き、最終的に短い舌打ちと共に手紙を放り捨てた。
「あの偏屈ジジイめ。自分の知り合いの世話を俺に押し付けやがって。まあいい、あの男がわざわざ紹介状を書くくらいだ。ただの冷やかしじゃないってことだけは認めてやる」
マタは顎をしゃくって、わたしたちを工房の奥へと促した。
工房の内部は、外のゴミ山をさらに圧縮して凝縮したような空間だった。足の踏み場もないほど散乱する道具と素材の隙間を縫って歩くのは、もはや一種のアクロバットである。
壁には無数の武器が掛けられていたが、どれもこれも、どう使えば良いのかわからない物ばかりだった。博物館にあるような刃が枝分かれした剣、円盤状の刃が十字に付いた巨大な斧、そして何に使うのかすら想像できない金属の塊。
「退屈なものじゃないって、例えばどんな武器があるんですか」
わたしが半ば呆れながら、それでも一応の礼儀として尋ねると、マタの目に職人特有の狂気じみた光が宿った。
彼は工房の最奥に設置された厳重な鍵付きの木箱を開け、中から一本の奇妙な剣を持ち出してきた。
「よくぞ聞いてくれた。お前たちに見る目があるかどうか、これで試させてもらうとしよう」
マタが恭しく掲げたその剣は、一見すると少し柄が長いだけの長剣に見えた。
しかし、刀身が異常に分厚い。しかもそこに無数の山型の筋が切ってあり、魚の背骨のようにも見えるひどく不気味なフォルムだ。
「これぞ俺の最高傑作。ボーダーの最新機構を搭載した『蛇腹剣』だ」
マタは胸を張り、勝利を確信したような顔をした。




