63、深夜の工作と、極上の悪ふざけ
ダイスロープの夜は、文字通り底なしの暗闇だった。
海上封鎖の影響で油が極端に不足しているから、街灯の類は最初から息をしていない。空を覆う分厚い雲が二つの月すら隠してしまい、足元の石畳の境界線すら曖昧に溶けている。
悪事を働くには、これ以上ないほどおあつらえ向きの天候だ。これからわたしたちがやるのは一応「世直し」の部類に入るはずなのだが、客観的な罪状を並べれば、軍事施設への不法侵入と器物損壊、および国家反逆罪のフルコースである。
わたしは路地裏の暗がりで、小刻みに震えるミケーネの肩から手を離した。
「大丈夫よ。あなたの弟分って子も、ボーダーからの小舟も、絶対に沈めさせないから。ここで大人しく待っていなさい」
泣きじゃくる猫耳の少女を暗がりに押し込み、絶対になんとかすると約束した。嘘にするつもりはない。
でも、自分の口から出た声は、不思議なくらいに低くて、冷たかった。
人を慰める体温のようなものが欠落している。以前のわたしなら、もっと一緒にパニックになって、手を取り合って震えていたはずだ。
けれど、今のわたしの心臓は、腹の底で低く唸る別のエンジンみたいなものに置き換わっている。恐怖とか、尻込みするような感情の回路が、吸血鬼という肉体を手に入れた代償として、どこか焼き切れちゃっている感覚があった。
「さて、と。時間がないわね」
わたしは立ち上がり、隣で闇と同化している統を見下ろした。
「ああ。船が軍用ドックに入ってから、夜明け前に再出航するまでの数時間が勝負になる」
統は感情の読めない顔のまま、音もなく歩き出した。わたしもその後を追う。
「ねえ、統」
わたしは足音を殺しながら、前を歩く小さな背中に小声で尋ねた。
「あの船、統の力なら一瞬で海の底に沈められるでしょ? なんでわざわざ、わたしの回りくどいイタズラに付き合ってくれてるの?」
統は歩みを止めず、少しだけ顔を横に向けた。
「被害の計算だ。私が力で船を沈めれば、隣接する海軍の軍艦にも波や衝撃が及ぶ。誘爆の危険もある。それに、原因不明の沈没や襲撃となれば、公爵はそれを口実に戒厳令を敷き、犯人捜しと称して裏街の人間を徹底的に粛清するだろう」
統の言葉は、鋭い刃物みたいに重く突き刺さった。
「お前が気にかけている食堂の女将や、あの猫の獣人たちに火の粉が降りかかる。……それでも、力でねじ伏せるか?」
「……ううん。統の言う通りよね」
この一見冷酷な弟(仮)は、彼なりの合理性で、この街の被害を最小限に抑えようとしてくれているのだ。平和ボケした日本の女子高生が思いつきで暴力を振るえば、そのツケを払わされるのはいつも立場の弱い人間だ。
暴力で解決できる力を持っているからこそ、それを使わない選択が一番難しい。
「それに」と、統は前を向いたまま付け加えた。
「相手の面目を完全に潰して社会的な死を与える方が、ただ物理的に破壊するよりも効率よく後顧の憂いを断てるからな。お前の考えた悪ふざけは、極めて理にかなっている」
褒められているのか、性格の悪さを指摘されているのか判断に迷うところだけど、目的が一致しているなら十分だと思おう。
港の軍用ドックに近づくにつれ、潮風に混じって鉄とタールの匂いが濃くなってきた。
高い石壁と鉄格子で囲まれたエリアの入り口には、海軍の正規兵が槍を持って立っている。彼らの顔には疲労と不満が色濃く浮かんでいた。自分たちの本来の任務とは違う、公爵の私兵の隠れ蓑にされているのだから当然だろう。
「どうやって入るの?」
「正面からだ」
統が指を軽く鳴らした。
直後、門番の兵士たちの焦点がふっと定まらなくなった。そのまま直立不動の姿勢を保ってはいるが、明らかに意識は別の次元へ飛んでいる。統の得意技、認識阻害と浅い睡眠魔法の合わせ技だ。
わたしたちは堂々と正面ゲートを抜け、ドックの内部へと足を踏み入れた。
広大なドックの最奥。周囲の軍艦から隔離されるように、一隻の黒い船が停泊していた。
近くで見ると、その異様さがさらに際立つ。船体全体に黒い塗料が塗りたくられていて、光を一切反射しない。タラップの前に立っていた見張りの男たちも、統が視線を向けただけで膝から崩れ落ち、深い眠りについた。本当に彼のチート能力は無法すぎる。
船の甲板に忍び込むと、安い酒と汗のすえた匂いが鼻を突いた。
船室の扉の隙間から、下品な笑い声とくぐもった話し声が漏れてくる。
「……今日もしこたま稼いだな。ボーダーの連中、すっかり怯えきってやがる」
「ああ。公爵様もご満悦だ。このまま封鎖を続ければ、あっちの街の利権も全部俺たちのものになる」
「明け方は密輸の小舟を沈めるんだろ? 逆らう奴は見せしめに海の底だ。楽な仕事で助かるぜ」
聞こえてきた会話の内容に、わたしのこめかみで血管が脈打つ感覚があった。
こいつらは海軍の兵士じゃない。金で雇われた公爵の私兵であり、海賊のふりをして弱い者いじめを楽しんでいるだけのクズどもだ。
ミケーネの泣き顔や、魚屋のおじさんの諦めきった顔が脳裏をよぎる。
わたしは船室の扉を蹴り開け、中にいる連中を全員海の底へ放り込んでやりたい衝動に駆られた。今のわたしの腕力なら、人間の首の骨を折るなんて枯れ枝を折るより簡単だ。殺せる。はっきりと、その確信があった。
だが、統が冷たい手でわたしの腕を強く掴んだ。
「今は目的を優先しろ。感情で動くな」
「……わかってる」
わたしは深く息を吐き出し、沸点に達しそうな怒りを腹の底へ押し込んだ。こんな奴らの血で手を汚す必要はない。こいつらには、もっと極上の絶望と恥辱をプレゼントしてやるのだから。
わたしたちは甲板のハッチから船底の機関部へと潜り込んだ。
そこは薄暗く、海水と木の腐った匂いが立ち込めている。
わたしはサコッシュから、リベットのおじさんが作ってくれた時限式の浸水トラップを取り出した。金属の歯車とスプリングが複雑に組み合わされた、無骨だけれど芸術的な部品だ。
「ここね」
わたしが図面で指定された船底の中央部分を指差すと、統が手をかざした。魔法の力で木材の一部が音もなく切り取られ、そこにトラップの部品がぴったりと収まる。さらに統が魔力で隙間を接着し、完全に一体化させた。
このトラップは、船が港を出て一定の波の揺れと水圧を感知したタイミングで、絶妙な大きさの穴を開ける仕組みになっている。船は急激に海水を飲み込むが、すぐには沈まない。ただし航行能力は完全に失われ、海の上でただの巨大な浮き輪と化す。
「次は船長室だ」
わたしたちは再び階段を上がり、船の後方にある立派な扉の前へ来た。
ここにも鍵がかかっていたが、統が指先を触れただけで錠前は内部から砂のように崩れ落ちた。もはや魔法というよりは、物理法則に対する冒涜だ。
船長室の中は、外見の不気味さとは裏腹に、無駄に豪華な調度品で飾られていた。海賊を気取っているくせに、趣味は成金貴族そのものだ。
机の上や引き出しを物色すると、厳重に封をされた革の書類入れが見つかった。
中身を開いてみると、そこには王室の紋章に似せた、タイクーン公爵家の印が押された命令書が入っていた。
内容は予想通りだ。『海賊を騙り、ボーダーの商船を襲撃せよ。海上封鎖の口実を作れ』という旨が、ご丁寧にも公爵直筆のサイン入りで記されている。
「馬鹿ね。こんな決定的な証拠、さっさと燃やしちゃえばいいのに」
「権力の頂点近くに居る者というのは、自分の命令が絶対であるという証拠を残したがるものだ。部下への脅しでもあるからな」
統が呆れたように言い捨てる。
わたしはその命令書を丁寧にサコッシュの奥深くへしまい込んだ。これは後で、王都のお偉いさん(アリアさんの上司あたり)に送りつけてやるための最高のお土産になる。
さて、残るは最後の仕上げだ。
わたしたちは甲板へ戻り、最も高いメインマストを見上げた。
帆はきつく畳まれ、ロープで縛られている。
わたしは再びサコッシュから、リベットのおじさん特製の『仕掛け帆』を取り出した。
これは元々ある帆の上から被せるようにしてセットする薄い布なのだが、特殊な薬品が塗り込まれている。海風に吹かれ、波しぶきや日光を浴びることで、透明だった薬品が化学反応を起こし、黒々とした文字として浮かび上がるという寸法だ。
わたしと統はマストを登り、仕掛け帆を元の帆に重ねるようにして結びつけた。吸血鬼の身体能力があれば、足場の悪いマストの上でも平地を歩くように動ける。
問題は、そこにどんな文字を仕込むかだ。薬品は筆でなぞった部分だけが反応するようになっている。
わたしはマストの上で、月明かりを頼りに小筆を握った。
「あんまり長い文章だと読みにくいわよね。シンプルに、かつ破壊力のある言葉じゃないと」
「日本語で書くなよ」
統はマストのてっぺんに座り込み、夜風に吹かれながら疑わしそうに言った。
「だ、大丈夫よ!」
「“カンチョウ”して綴りを間違えるな」
「いつまでそのネタでイジる気よ! 黙って見てなさいよ!」
「はいはい。お任せいたします」
「事実を書くだけじゃ面白くないじゃないし……。せっかくなら、公爵が恥ずかしくて二度と表を歩けなくなるような文面にしたいのよ」
わたしは少し考え込み、やがて口元を歪めて筆を走らせた。
『我ら、タイクーン公爵様のカワイイ私兵! ボーダーの町をイジメるための偽海賊でござる! お魚止めてごめんなさい!』
うん、完璧だ。
軍の威厳も、公爵の威光も、すべてを台無しにする最高に間抜けな暴露文である。これが真っ昼間の海の上で、街中の人々の目の前で巨大な帆に掲げられるのだ。想像しただけで笑いがこみ上げてくる。
「悪趣味の極みだな」
統がわたしの書いた文字を見て、心底呆れたような声を出した。
「最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
すべての工作を終え、わたしたちは音もなく船を降りた。
見張りの兵士たちはまだ気持ちよさそうに眠りこけている。彼らが目を覚ます頃には、この船は破滅の運命に向かって出航の準備を始めることだろう。
ドックを抜け出し、暗い街の路地を歩きながらわたしは大きく伸びをした。
緊張の糸が解け、心地よい疲労感が肩に乗ってくる。
「これで、準備は完了ね」
「ああ。あとは、明日の朝の出航を待つだけだ」
統が言う通り、舞台のセットはすべて整った。
明日の明け方、あの黒い船はミケーネの弟分たちを沈めるために港を出る。そして、街から最もよく見える沖合で、わたしたちの仕掛けた極上のショーが幕を開けるのだ。
「ねえ、統」
わたしは空を見上げた。分厚い雲の隙間から、二つの月が顔を覗かせている。
「この街の人たち、明日の夜には美味しいお魚が食べられるようになるかな」
「物流の回復には数日かかるだろうが、希望の光くらいは見せてやれるだろう」
統の言葉は相変わらず冷たかったけれど、その響きにはどこか温かいものが混ざっているような気がした。
宿に戻り、粗末なベッドに横たわっても、興奮でなかなか寝付けなかった。
脳裏に浮かぶのは、あの生意気で不器用なミケーネの顔や、食堂の女将さんの疲れた笑顔、そして悔しそうに拳を握っていた若い士官、ビクトルの姿だ。
彼らが背負わされている理不尽な重荷を、明日の朝、全部まとめて海に放り投げてやる。
「早く朝になんないかな」
わたしは毛布を頭から被り、目を閉じた。
腹の底で鳴る「深い心臓」の鼓動が、明日の痛快な大立ち回りを待ちわびるように、力強くリズムを刻んでいた。




