61、鉄の棺桶と、泥棒猫の恩返し
【リベット爺さんのターン】
酒という液体は、人間の脳みそを溶かして都合の悪い記憶を消し去ってくれる魔法の薬だ、と信じている人間は多い。
しかし、アルコール度数の高い蒸留酒を何十年も胃袋に流し込み続けてきたリベットに言わせれば、それは完全な迷信である。
酒は記憶を消さない。むしろ、どうでもいい日常の記憶を揮発させる代わりに、絶対に忘れたい過去の苦みだけを、底のほうで濃縮して保存するのだ。
赤錆に覆われた旧造船所の工房で、リベットは今日も金属の部品と格闘していた。
手元には、例の「姉弟」から依頼された悪ふざけのための仕掛けがある。歯車を噛み合わせ、スプリングの張力を調整する彼の手つきは、しこたま酒を飲んでいるにもかかわらず、一切のブレがない。何十年も鉄と向き合ってきた指先は、脳の指令よりも早く、金属の最適な収まり場所を知っているのだ。
リベット・アーチボルト。
かつて、この王国海軍において、彼の引いた設計図を通らずして進水した艦艇は一隻もなかった。
彼が造る船は、決して優美ではなかった。貴族たちが好むような華美な装飾もなければ、他国を威圧するための無駄に巨大な艦橋もない。彼がこだわったのはただ一点、「絶対に沈まず、乗組員を生きて陸へ帰すこと」だった。
嵐に巻き込まれようが、敵船の砲撃を受けようが、竜骨さえ折れなければ船は浮く。浮いてさえいれば、水兵たちは家族の待つダイスロープの港へ帰ってくることができる。それが彼の設計思想であり、誇りだった。
だが、時代は変わる。
リッチー・タイクーン公爵が海軍の実権を握り始めた頃から、上層部の要求は狂い始めた。
「装甲を削れ。その分、大砲を多く積め」
「木材の乾燥期間を半分にしろ。建造を急げ」
「居住区画を狭くして、弾薬庫を広げろ」
彼らが求めたのは、人を乗せる船ではなかった。相手を殺すための、浮かぶ砲台だ。そして、一隻でも多く、一隻でも安く。水兵の命など、海に撒く撒き餌程度にしか考えていない要求だった。
ある日、公爵直属の士官が持ってきた新しい軍艦の設計変更案を見たとき、リベットの中で何かが音を立てて切れた。
『こんなものは船じゃねえ。ただの鉄の棺桶だ。俺は、若者たちを死地に送るための棺桶にサインをするつもりはねえ!』
士官の顔に設計図を叩きつけたあの日が、彼が海軍設計主任であった最後の日となった。
反逆と抗命のレッテルを貼られ、彼は第一線を追放された。
その日、名前も知らない一人の若い士官が頭を下げていたが、それっきり顔は合わせていない。
翌日からは、旧造船所のこの埃っぽい倉庫に押し込められ、それ以来、忘れ去られ、彼は鉄ではなく酒瓶と向き合う日々を選ぶようになった。
自分の愛した海軍が、公爵の私兵へと堕落していくのを、ただ酒焼けした目で見つめることしかできなかったのだから。
そんな彼の自暴自棄な隠居生活に、一匹の野良猫が迷い込んできたのは、つい数年前のことだ。
その日もリベットは、アルコールの海を漂いながら、作業台の上で突っ伏して眠っていた。
微かな金属音で目を覚ますと、倉庫の隅に積んであった真鍮のスクラップを、薄汚れた小さな影が麻袋に詰め込んでいるところだった。
泥棒である。
リベットは音もなく立ち上がり、油まみれのスパナを掴んで、その影の首根っこをひっつかんだ。
悲鳴を上げて暴れたのは、猫の耳を生やした獣人の少女ミケーネだった。
「痛い! 離せ、このアル中ジジイ!」
「他人の工房に忍び込んで鉄屑を盗むとは、いい度胸じゃねえか。海軍の衛兵に突き出してやろうか」
リベットが凄むと、ミケーネの耳がペタリと伏せられ、彼女はガタガタと震え出した。だが、その目は決して降伏していなかった。必死に涙を堪え、牙を剥くようにリベットを睨み返してきた。
「突き出せばいいさ! でも、あたしが捕まったら、弟分たちはどうなるんだよ。あいつら、昨日から水しか飲んでないんだ!」
彼女が盗もうとしていた真鍮のスクラップは、裏街のクズ屋に持っていけば、パン数個分にはなる。彼女は自分のためではなく、仲間のために盗みに入ったのだ。
リベットは、彼女のその必死な瞳に、かつて自分が送り出した若い水兵たちの姿を重ねていた。
沈むとわかっている棺桶に乗せられ、それでも家族を養うために海へ出ていった若者たちの目を。
リベットは深くため息をつき、ミケーネを解放した。
そして、部屋の奥から手つかずの保存用ビスケットの缶を引っ張り出し、彼女の胸に押し付けた。
「真鍮の相場も知らねえような素人が泥棒なんてするんじゃねえ。……それを持っていけ。ただし、二度と俺の視界をうろちょろするな」
それが、彼とミケーネの最初の関わりだった。
しかし、野良猫というのは、一度餌をやると勝手に懐くものである。
二度と来るなと言ったはずなのに、ミケーネはそれから数日おきに工房へ顔を出すようになった。
最初は『ビスケットの恩返し』と称して、港で拾った貝殻や、どこからかかすめ取ってきた安い果物を置いていく程度だった。
だが、そのうちリベットの作業台の横に座り込み、街の噂話や、海軍の兵士たちの愚痴をペラペラと喋って帰るようになったのだ。
「ねえ、爺さん。海軍の連中、また新しい船を造ってるらしいよ。でも、なんだかペラペラで、波が高かったら折れそうだって、水兵がこぼしてた」
「……フン。素人が口を挟むな」
口では邪険に扱いながらも、リベットは彼女が持ってくる外の空気を、どこか心待ちにするようになっていた。
ミケーネは、水が怖いと言っていた。獣人の本能なのか、過去のトラウマなのかは知らないが、彼女は海を見るだけで耳を伏せる。
それなのに、彼女は仲間のために、夜な夜な小舟で密輸の仕事をしている。震える手でオールを握り、真っ暗な海を渡っているのだ。
その泥臭い生存本能と自己犠牲は、リベットの中に残っていた「大人の責任」という感覚を、チクチクと刺激し続けていた。
(……俺は、こんな子供たちを路地裏に放置して、何をしてるんだ)
酒瓶の底を見るたびに、自嘲の笑みが漏れた。
誇りを守るために職を辞したはずなのに、気づけば誇りすら酒で溶かして、ただの役立たずの老いぼれになり下がっている。
そんな自分に対する怒りが、常に彼の腹の底で燻っていた。
だからこそ。
あの得体の知れない姉弟――ドレミとスバルが現れたとき、リベットは迷わず彼らに手を貸すことを決めたのだ。
公爵の私兵が乗る、俺の設計図を盗んで造られた偽海賊船。
あれを、最高に間抜けな形で舞台のど真ん中に引きずり出す。
そのためなら、残りの寿命を何年か縮めても構わないと思った。
「よし、できたぞ……」
リベットは、作業台の上に完成した二つの装置を並べた。
船底に仕掛ける時限式の浸水トラップ。そして、マストの頂上で作動する特殊な展開式の帆。
長年培ってきた設計技術のすべてを、破壊ではなく、極上の「悪ふざけ」のために注ぎ込んだ。皮肉なものだが、海軍で棺桶を設計させられていた頃よりも、ずっと気分が高揚していた。
酒を飲むのも忘れて没頭していたせいで、手の震えはすっかり止まっている。
「……爺さん、いる?」
入り口から、ひょっこりと顔を出したのはミケーネだった。
相変わらず小汚い格好をしているが、その顔にはいつになく切実な不安が張り付いている。
「またお前か。今は忙しい。餌ならねえぞ」
「違うよ。あたし、あのお姉ちゃんたちが心配でさ……」
ミケーネは、作業台の上の奇妙な機械を見つめながら言った。
「あの二人、本当にあの黒い船に仕掛けをする気なの? 相手は軍隊だよ。捕まったら、ただじゃ済まない」
「心配いらねえよ」
リベットは、ニヤリと唇を歪めた。
「あいつらは、お前さんが心配するような弱っちい人間じゃねえ。あのチビの坊主の目を見たか? あれは、この世の理を根っこから捻じ曲げるような化け物の目だ」
「あの怖い子か……」
「それに、あのお転婆な姉ちゃんの方も、ただの女じゃねえ。自分の腹を減らした相手を絶対に許さねえっていう、ある意味で世界一おっかない執念を持ってる。……公爵の連中は、喧嘩を売る相手を完全に間違えたのさ」
リベットは完成した装置を布で包み、立ち上がった。
「ミケーネ。明日の朝、港が見える一番いい特等席を確保しておけ。……この腐った街に、久しぶりにデカい花火が上がるぜ」
ミケーネは瞬きをし、やがてその猫耳をピンと立てて、パッと顔を輝かせた。
「……うん! わかった!」
彼女が軽やかな足取りで工房から駆け出していくのを見送り、リベットは残っていた酒瓶の中身を、床にぶちまけた。
アルコールの刺激臭が埃っぽい空気に混ざる。
もう、酔っている暇はない。
あの姉弟がこの街の海をこじ開けてくれるのなら、自分もまた、ただの飲んだくれの爺さんで終わるわけにはいかないのだ。
「さて……久しぶりに、いい仕事を見せてもらうとするか」
リベットは、油にまみれた手で自分の頬を軽く叩いた。
窓の外には、海を覆う重たい雲の隙間から、薄っすらと月光が差し込もうとしていた。
ダイスロープの長い長い夜が、ついに明けようとしている。そんな予感が、老技師の胸の中で静かに、しかし熱く脈打っていた。




