6、黄昏の迷子
朝。
目を覚ましたら、テントの中はひんやりしていた。
外ではドワーフさんが金属をカンカン鳴らしていて、どうやら朝から元気らしい。金属音は目覚まし代わりとしては最悪だが、異世界の朝はそういうもんなのかもしれない。
隣を見ると、お姉さんはもういなかった。几帳面なのか働き者なのか、そのあたりはまだ判断がつかない。
ただ、寝相が異様に良かったのは確認済み。寝袋から一ミリも動いてなかった。あれが性格を表してるとしたら、たぶん生真面目タイプだ。
外に出ると、空気がピンと冷たい。
太陽が二つあるのは今日も変わらず。慣れたような気もするけど、心のどこかではずっと“合成画像みたいだな”と思っている。
朝露で濡れた草が靴に張り付いて、歩くたびに「ペチョ、ペチョ」と鳴る。こういう小さな現象が、なんとなく自分が異世界にいるという実感を裏打ちしてくれる。いや、してほしくないんだけどさ。
焚き火の残り香がまだ漂っているところで、ドワーフさんが湯を沸かしていた。
何かの木の根っこみたいなものを削って鍋に入れてる。
たぶんスープかお茶だろう。
ただその鍋の中身が、ちょっとした実験装置の失敗例みたいな色をしているのが気になる。
――飲んだらお腹の中で爆発しない? ねぇ大丈夫?
ドワーフさんはゴキゲンに口笛を吹きながらおたまをくるくる回している。わたしの不安なんてどこ吹く風だ。
「ホmみkusオk on ヴァlmis」
朝食の合図らしい。
パンを炙って、塩っけの強いスープを飲み、昨日ほど固くはなかったけど歯茎には攻撃力が高めだった。
それでも、妙に落ち着く。
“この世界で生き延びられそうかも”なんて、ほんの少しだけ思ってしまったのが運の尽きだったんだろう。
昼前、出発の準備をしていたら、空気が変わった。
遠くの森の方から、ざわ……と風でもない、獣でもない、あの“生き物の群れの気配”みたいなのが流れてきた。
空気の密度がちょっとだけ重くなる。
お姉さんも、ピクリと顔を上げて森のほうを見た。
馬の人は黙って剣の柄に手をやり、イヌミミさんは耳をピンと立てている。
ドワーフさんは……と見たら、すでにハンマーを握って構えていた。
早いなこの人。たぶんこの中で一番戦闘民族だ。
「何? え、何か来るの?」
もちろん返事はない。
お姉さんが短く何か叫ぶと、三人が一斉に動いた。
馬を囲むように配置し、わたしには「下がってろ」っぽいジェスチャー。
ありがたいけど、どこまで下がればいいの?
わたしも慌てて木の陰に隠れた。パン切りで使ったナイフとカッターナイフしかないけど、まぁ無いよりマシ。
次の瞬間、森の奥から飛び出してきた。
灰色の毛並み、異様に光る目、肩までの高さがわたしの胸ぐらいある。
犬? いや、狼だ。いや、狼の皮を被った化け物。
鼻先から蒸気みたいな息を吐いて、低い唸り声が空気を震わせた。
背筋に冷たい電流が走る。
十頭、いや二十? 数える間もなく群れが広場に雪崩れ込んできた。
それを迎え撃つように、お姉さんが剣を抜く。
陽光を受けて刃が一瞬、閃光みたいにきらめいた。
その後の動きは、もうスローモーションの映画みたいだった。
ドワーフさんは正面から一撃。ハンマーが振り下ろされるたび、狼もどきが地面に沈む。
イヌミミさんは信じられない跳躍力で、背中から背中へ飛び移るようにして剣を振る。
お姉さんは正確無比に急所を突き、血の軌跡を描いている。
馬の人は……うん、馬の守り専門みたいだ。動かないけどたぶんすごい。
問題は――わたしだ。
隠れてるだけ。
心臓の鼓動が早送りのドラムみたいになってる。
足が勝手に震える。膝が笑うってこういうことか。いや、笑ってない。ガチで怖い。
ガサッとすぐ近くの茂みが揺れた。
反射的に振り向くと、そこに一頭。
黒い。今までの灰色と違って、明らかに格が違う。
その目がこっちを射抜いた瞬間、背筋の温度が三度下がった。
完全に目が合ってる。逃げても追ってくるやつだ。
体が勝手に動いた。
叫び声を上げる余裕もなく、森の奥へダッシュ。
木々の間をかき分け、枝が顔に当たって痛いけど気にしてられない。
後ろから低い唸り声と足音が迫ってくる。
振り返るな、絶対振り返るな。ホラー映画でそれやると死ぬやつ。
息が切れ、視界が白くなる。
足元がぬかるんで、滑って、転んだ。
手のひらに土と血の味。
立ち上がろうとして、右足首が「ミシッ」と嫌な音を立てた。
あ、やばい。捻ったかもしれない。
狼もどきが、目の前の茂みを突き破って現れた。
牙が見える。涎が光る。
――終わった、と思った瞬間。
ズドンッ、と空気を裂くような音。
狼の頭が弾け飛んだ。
振り向くと、お姉さんが弓を構えていた。
矢を番える動作が速すぎて、まるで時が止まったみたいだ。
矢がもう一本、空を裂いて飛ぶ。
だけど、別の狼もどきが横から飛び出して、お姉さんの馬を弾き飛ばした。
馬が悲鳴を上げ、お姉さんが地面に転がる。
わたしは反射的に走り寄ろうとしたけど、その瞬間、群れが間に割り込んだ。
視界が血と土でぐちゃぐちゃになる。
叫び声。火花。
何が起きてるのかわからない。
気づいたら、わたしは再び森の奥へ押し出されていた。
お姉さんたちの姿がもう見えない。
どこだここ。
木の影ばっかり。日が落ちかけて、森全体が青く沈んでいく。
息が上がって、肺が焼けるみたいに痛い。
足首もズキズキする。
とりあえず近くの大木にもたれかかって、息を整えた。
……静かだ。
あれだけの騒ぎが嘘みたいに、何も聞こえない。
風の音も、虫の声も、ない。
世界の音量がゼロになったみたいだ。
遠くでかすかに、馬のいななきが聞こえた気がした。
でも方向がわからない。
下手に動けば、群れにまた見つかる。
動かないほうがいい。たぶん。いや、絶対。
そのまま、じっと息を潜めていた。
時間の感覚がなくなる。
空が群青から黒に変わっていくのを見ながら、ふと思う。
――わたし、完全に迷子だよね。
それはもう、異世界迷子の中でもトップクラスのやつ。
言葉も通じない。地図もない。スマホも圏外(というか電波の概念があるのかも怪しい)。
頼りになるのは、二刀流のナイフ。
ああ、文明って偉大だったんだなあ、と今さら痛感する。
お姉さんたちは無事だろうか。
あんな強い人たちだから、きっと大丈夫……と信じたい。
信じたいけど、あの黒い狼の眼が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
まるで“また来るぞ”とでも言いたげだった。
夜が深まる。
冷たい風が吹き抜けて、体温が奪われていく。
焚き火もない。
火の起こし方なんて、理科の実験で失敗した記憶しかない。
結局その夜、わたしは大木の根元で体育座りのまま夜を明かした。
体が冷え切って、歯がカチカチ鳴る。
でも、眠る勇気は出なかった。
目を閉じたら、あの黒い狼が夢の中にまで来そうで。
夜明け前、空の端が白み始めた頃。
風の中に、かすかに焦げた匂いが混じった。
……煙?
森の向こう、木々の隙間から、細い灰色の煙が立ち上っているのが見えた。
誰かが焚き火をしている。
もしかしたら、お姉さんたちかもしれない。
立ち上がろうとして、右足の痛みに顔をしかめた。
それでも進まなきゃ、と思った。
このままじっとしてても、きっと何も変わらない。
死なないためには、動くしかない。
杖代わりに木の枝を拾い、足を引きずりながら森の奥へ進んでいく。
心臓の音がまだ早い。
けれど、その奥で、小さな声が囁いていた。
――お前、やっと冒険っぽくなってきたな。
いやいや、そうじゃない。
冒険なんて望んでない。
わたしが欲しいのはWi-Fiとコンビニと安全な布団。
でも、この世界にはどれもない。
代わりにあるのは、狼の遠吠えと、夜明けの冷たい光。
それでも歩く。
怖いけど、少しだけ胸の奥に何かが灯っていた。
――生き延びて、また誰かと会いたい。
それだけを頼りに、わたしは煙のほうへ歩き出した。
足跡を残しながら、異世界の朝の中へ。




