39、姉と弟と、時々、言語の壁
【2026/5月改訂】
森を抜けると、空が急に広くなった。
緑の匂いと湿った空気が背中の方へ遠ざかっていって、胸の奥にたまってた何かが、すうっと軽くなる。
だから、なんとなく大きく息を吸った。
今のわたしの体が、前みたいにちゃんと酸素を必要としてるのかは、正直よくわからない。
心臓だって、胸じゃなくて腹の奥で変なふうに鳴るし。
でも、人間だったころの癖みたいなもので、こういうときは深呼吸したくなる。
振り返っても、もうログハウスは見えなかった。
認識阻害の結界ってやつのせいで、意識して見ようとしても視線がつるっと流れる。
あそこに、ゲルトさんが残った。
片腕を失って、仲間を失って、それでも生きる方を選んだ。
そのことが、まだ胸のどこかに引っかかってる。
「ねえ」
隣を歩く統に声をかけた。
「ゲルトさん、一人で大丈夫かな」
薪を割って、水を運んで、森の中で暮らしていく。
できるんだろうとは思う。けど、そういう話じゃなくて、ってやつだ。
「生き抜く力はあるだろう」
統は前を向いたまま答える。
「狼人族の生命力は高い。あの程度の怪我で死ぬようなら、そもそもここまで生きていない」
相変わらず、言い方はドライだ。
「でも不便でしょ。義手とか、ないの? 統の次元収納、そういうのまで入ってそうじゃん」
「必要だと思ったことがないので、持ってない」
「そこはないんだ」
「仮に持っていても、渡してはいない」
「なんで」
「目立つ」
それだけ言われて、口をつぐんだ。
そりゃそうだ。
こんな世界で、いかにも特別な義手なんてつけてたら、静かに暮らすどころじゃない。
助けになるどころか、別の厄介ごとを背負わせることになる。
「……そっか」
統は余計なことを言わなかった。
でもたぶん、それが統なりの配慮なんだろうと思う。
街道は乾いた土の色をしていて、ところどころ轍が深い。
日が上がるにつれて、風もぬるくなってきた。
「次はどこ行くの?」
当てもなく歩くのは、気楽そうに見えて地味に心が削れる。
せめて行き先くらいは知っておきたい。
「途中で村に寄るかもしれんが、テンペタ・フロップスへ行く。問題なければ、しばらくそこで暮らす」
「テンペタ・フロップス」
言いにくい。
ちょっと噛みそうな名前だ。
「ここから歩いて十時間ほどだ。この国が今の王族に支配される前、周辺国ごと支配していた帝国の首都だった」
「帝国の首都。じゃあ、古い街?」
「今は王国の直轄地だ。帝国時代の街並みがかなり残っている。古い石造りの建物や、水道橋もある」
「へえ。なんか、ちょっと見たいかも」
古い街並み。石畳。でかい建物。
逃亡中だってのはわかってるけど、そういうのは普通に気になる。
「安全が確認できればな」
すぐ現実に戻された。
はいはい、わかってますよ。
街道では、ときどき旅人とすれ違った。
荷馬車を引く商人とか、武装した連中とか。
そういう相手とすれ違うたびに、統はさりげなくわたしをかばう位置に入る。
過保護だな、と思う。
見た目は弟なのに。
そう思ったところで、その“弟”が急に足を止めた。
「七色」
「なに」
「テンペタ・フロップスに着くまでに、言葉を直せ。目立つ」
唐突だった。
「え? 『マンダイない。りゅいちょーに喋られれれるじゃい?』」
そう言ったつもりだった。
つもりだったのに、統の目がじわっと細くなる。
「今の、何と言った」
「え、だから……問題ない。流暢に喋れてる、って」
「それをいうなら『問題ない。流暢に喋られているんじゃない?』だ。いきなりスーパーを探してどうする」
「うそでしょ」
自信がぐらついた。
統がゆっくり言い直す。
「問題。流暢」
美しい発音だった。
悔しいけど、そこだけ切り取ると本当に手本向きだ。
「……もんだい」
これはいける。
「りゅー……ちょ……」
あれ。
舌が変なところに引っかかる。
「りゅ・う・ちょ・う」
区切って言われると、余計に悔しい。
「少し違う、ね」
なんとか言い返したつもりだった。
統が無表情で見てくる。
「今のは『少し番うね』に近い」
数秒遅れて意味が入ってきた。
「は!?」
「交尾の宣言をするな」
「するわけないでしょ!」
顔が熱くなる。
なんでそうなるんだ、この言語。
「とにかく、道中は日本語禁止だ。発音を慣らせ」
「じゃあ統も直してよ、その喋り方。子どもに見えないもん。それに、わたしがおねーちゃん役なんだから、そこも合わせて」
「善処する」
「その返しがもう年寄りなんだって」
それでも、統は一応考えたらしい。
「……姉ちゃん、少し休もうぜ」
「急にガラ悪いな」
「……お姉ちゃん、疲れてない? 僕は少し疲れた」
「棒読み!」
「注文が多いな」
「そっちでしょ!」
弟役、向いてなさすぎる。
でも、そうやって言い合いしながら歩いていると、少しだけ気が楽になるのも事実だった。
歩き始めてしばらくして、前の方に土煙が見えた。
風に乗って、怒鳴り声みたいなものも聞こえる。
「……あれ」
目を凝らす。
視力が上がってるせいで、遠くの様子まで嫌にはっきり見えた。
一台の幌馬車。
それを囲む数人の男。
剣か槍みたいなものが光って、御者が必死に馬を走らせようとしている。
「盗賊?」
統も足を止めて、その先を見た。
「……馬車を助けるやつって、異世界テンプレっぽいよね」
「そうか?」
「ほら、助けたら偉い人が乗ってて、後ろ盾できるとか」
「その馬車、幌だぞ。たぶん小商人だ」
夢がしぼんだ。
言われて見れば、豪華な馬車じゃない。
実用一点張りの、荷運び用っぽいやつだ。
「……あー」
「現実を見ろ」
「見てるよ。見たうえで言うけど」
わたしは統を見た。
「助けるでしょ」
相手が誰だろうと、目の前で襲われてるのを見捨てる気にはなれない。
それに、助けたら街まで乗せてもらえるかもしれないし。
そのへんは、ちゃんと現実的に考えている。
「あまり派手にやるな。おねーちゃん」
統が、ちょっとだけ皮肉っぽく言った。
でも、その呼び方を一応続けようとしてるあたり、たぶん本人なりに頑張ってる。
「わかってるよ、弟」
サコッシュに手を入れて、短刀を取り出す。
腹の奥で、“深い鼓動”が静かに鳴った。
怖くはなかった。
そのかわり、体が勝手に前へ行きたがってる。
砂埃の向こうで、馬が甲高くいなないた。
怒声がひとつ、悲鳴がひとつ、遅れて届く。
わたしたちは一度だけ視線を合わせて、それから同時に地面を蹴った。
十時間歩くはずだった道は、どうやらそう素直には進ませてくれないらしい。
でも、まあ。
そういう方が、たぶん旅っぽい。
土煙の立つ街道へ向かって、わたしたちは一気に駆け出した。




