23、カトラリーとアリアの刃
【2026/5月改訂】
宿へ戻るころには、村の空はすっかり夕闇に沈んでいた。
二つの太陽はとうに隠れ、長い黄昏がようやく終わる。
この世界、昼が妙に長い。
夕方も明け方も引き延ばされたみたいで、まだ時間の感覚がうまく掴めない。
統に「なんで日光が平気なの」と聞いたら、返ってきたのは「知らん」の一言だった。
七千年も生きてるくせに、たまに説明を全部放り投げる。この人の中には説明責任という概念がないらしい。
まあ、別に困ってはいない。
吸血鬼っぽい身体になっても、日向を歩けるならそれはそれで助かる。
そんなことを考えながら横の統を見ると、すぐに気づかれた。
「なんだ、その締まりのない顔は。夕食の献立でも想像しているのか?」
「ひどい。もっとこう、優しい姉を見る目ってものがあるでしょ」
「姉?」
即座に返されて、ちょっとだけ腹が立つ。
宿の前にはもう、焼き魚と煮込みの匂いが流れてきていた。
香ばしい煙が夜気に混じって、空腹をきっちり刺激してくる。
……フィーネたちのことを考えると胸は重い。
でも、食べなきゃ明日も動けない。
そう思いながら扉をくぐる。
中へ入った瞬間、出汁と焼き目の混ざった温かい匂いが鼻をくすぐった。
ざわめきと食器の音。人の暮らしの温度。少しだけ肩の力が抜ける。
「あら、おかえり。すぐ食事できるけど、どうする?」
カウンターの向こうから、おかみさんがにこやかに声をかけてくる。
「ありがとうございます。お願いします」
統が即答した。
はや。
わたしが笑顔を作るより早かった。さっきまで人の顔を見て献立想像とか言ってたくせに。
食堂へ入ると、いくつかの視線がこちらに向く。
ちらちら、ひそひそ。
元の世界でも慣れた種類の視線なのに、今日は少し感触が違った。
統に袖を引かれて席に座る。
すぐに、湯気の立つ皿が並んだ。
焼き魚。
トマトと野菜の煮込み。
山盛りのパン。
……で、気づく。
カトラリーがない。
「ねえ統。これ、どうやって食べるの。頼めばいいのかな」
周りを見回すと、みんな好き勝手な食べ方をしていた。
手づかみでパンをちぎり、魚を崩し、煮込みをすくっている。かなり自由だ。
統は平然と言う。
「自分で用意するものなんだろうな」
そう言って、当たり前みたいにナイフとフォークとスプーンを取り出した。
ほんとうに、なんでも出てくる。
「ほら」
「便利収納め」
「歴史が詰まっているからな」
「急にかっこつけた」
「なら返せ」
「使うわよ」
フォークを握った瞬間、少しだけ“向こうの世界”の手触りが戻ってきた気がした。
学校でも、駅でも、家でも、当たり前に触っていた重さ。
そのせいか、周りの視線が一段強くなる。
「……なんか見られてる」
「子ども二人だけなのを気にしている者もいる。服装に興味がある者もいる。あとは、それだな」
「カトラリー?」
「ここでは珍しいんだろう」
なるほど。
文明の証を握りしめてるつもりが、ただ目立っているだけだった。
「いやよ。今さら返さないわよ」
「好きにしろ。もう遅い」
ちょっとむっとしたけど、一口食べたらそんな感情はだいぶどうでもよくなった。
魚は皮がぱりっとしていて、中はふわふわだった。
煮込みはほどよい酸味があって、パンを浸すとちょうどいい。
美味しいものは、美味しい。それだけで少しだけ心が軽くなる。
フィーネたちのことを思うと、やっぱり胸は痛む。
でも、食べなきゃ進めない。
そう自分に言い聞かせて、パンをちぎる。
その時だった。
背後で酒の匂いが濃くなった。笑い声が近づいてくる。
肌の上を、嫌な予感がすっと撫でた。
「よぉ、旅のガキども」
振り返ると、柄の悪そうな男が二人いた。
顔は赤く、足元はふらついているのに、目だけは妙に据わっている。
「珍しいもん使ってるな。どっから来たんだ?」
「親はどうした? まさか二人だけか?」
軽い調子に見せているけど、視線はまるで値踏みだ。
持ち物と、こっちの弱さを同時に量っている。
統が食事の手を止めた。
「何の用だ」
声は淡々としている。
それなのに、その一言だけで空気が冷えた。
男たちの肩がわずかに強ばる。
わたしもフォークを持つ手を引っ込めた。統、そういう圧の出し方ずるい。
「そんな怒るなよ。ちょっと話したいだけだって」
「なあ、嬢ちゃん?」
こっちに向けられた視線が気持ち悪い。
肌が粟立って、喉にさっきの食事が引っかかったみたいになる。
その時だった。
「お待たせ。で、あんたら何か用?」
軽い声がして、アリアがするりと席の横に入ってきた。
いつの間に近づいたのか分からない。動きに無駄がない。
笑っている。
でも、目はまったく笑っていなかった。そこだけ細い刃みたいに冷たい。
「アリア……」
思わず名前が漏れる。
朝に見た“頼れそうなお姉さん”じゃない。
完全に、場数を踏んだ冒険者の顔だ。
アリアは男たちを見たまま言う。
「ここ食堂なんだけど。子ども相手に絡むなら外でやりなよ。飯まずくなるでしょ」
言い方は軽い。
でも中身は全然軽くない。
一歩だけ前に出る。
それだけで男たちの目が泳いだ。
「い、いや……別に……」
「ただ話してただけで……」
「へぇ?」
アリアは笑ったまま首を傾げる。
「じゃあ、もう済んだよね」
それで終わりだった。
男たちは完全に勢いを失って、そそくさと自分たちの席へ戻っていく。
嵐が去ったあとみたいに、食堂の空気だけが少し遅れて緩んだ。
「ふぅ……」
わたしが息を吐くと、アリアは肩をすくめた。
「ああいう酔っ払い、どこにでもいるからね。止めるくらいは、まあついで」
さらっと言うけど、その“ついで”にできる圧じゃない。
「アリア、かたじけない。助かるです」
お礼を言うと、アリアがちょっと不思議そうな顔をした。
「あんた、ドレミちゃんだっけ。喋れたんだね」
あ。
そうだった。朝は無口設定だった。
「うむ、しゃべれるです。朝はかんちょーしてたので、おとなしかったです」
一瞬、間があいた。
アリアが吹き出す。
統は俯いて肩を震わせている。
「それはだいぶ意味変わるね」
「え、なに、どした?」
わたしだけ置いていかれている。
異世界語、たぶん今なにかやらかした。
統が半笑いのまま言った。
「すまない。姉はまだこの国の言葉に慣れていない」
「なるほど……くくっ」
なんかすごく悔しい。
でも今はそれどころじゃなかった。
「それで?」
統がさりげなく空気を戻す。
「そちらの用事は済んだのか」
「ああ。済んだっていうか、厄介ごとも拾ったけど」
アリアの表情が少し締まった。
「それ、あんたらが気にしてた件にも関係ある」
「気にしてた?」
わたしが聞き返すより先に、アリアが言う。
「片腕の獣人のこと」
「えっ。イヌミミさん!?」
反射的に身を乗り出していた。椅子がきしむ。
アリアは一瞬だけ口元をゆるめ、すぐ真顔に戻る。
「そう。その人」
統の声がわずかに低くなる。
「見つかったのか」
アリアはわたしたちを順に見た。
食堂のざわめきが、急に遠くなった気がした。
「──見つけたわよ。たぶん、あんたらが探してる“人”」




