終章
螺旋階段――立ち並ぶビルの、少し奥まったところ。或いは人が行き交うメインストリートにむき出しになっているそれは、人の気に止まることはなく……それでも僕の注意を引きつけて止まなかった。雨の日であっても、僕にはもう心を乱されることはない。雨粒が、空が流した涙のように思えた自分を潔いとは思わないが純粋だったとは認めてもいい。螺旋階段に引っかかっていたのは雨粒ではなく、惨めな僕の心だったのだ。無意味な抵抗を繰り返し、それでもやはり地面に向かって螺旋を描き、落ちていかなければならない。まるであの日の雨のように。
坂道を下り、ふと後ろを振り返れば、灰色に曇る空から降っていた雨はやみ、雲の合間から明かりがさしている。歩道橋の階段には色とりどりの傘が姿を消し、僕は少しだけ寂しくなり、あなたが雨の日に口ずさんだ歌を思い浮かべる。
「雨、あがったね?」と僕は問いかける
「雨上がりってどことなく寂しくならない?」あなたは聞き返す
そして僕は首を振る「僕にはわからないよ」
「でも、雨も太陽もその人の心のあり方によって見え方が違うというの?」
あなたは拒んだのか、それとも受容したのか
「好きだよ」僕はあなたを求めてみる
「……知ってるわ。でも、知らない」
あなたは僕を、受け入れてくれた。少年が太陽の陽射しを受けて成長して青年になり、青年は、星の空にロマンを感じ、月の光に恋焦がれる。月はその夜、その夜で表情を変え、青年を困惑させる。やがて、青年はその月が決して自分の思い通りにならないと知り、悟り、そして大人になる。
いつか、あなたを自分だけのものにしたい。
それを愛だとは知らずに、愛だとは言えずに、愛ともわからずに。
あなたは何でも僕の望みをかなえてくれた。僕が望んだのは、あなたの細い指先、短い髪、白い肌、熱い息。でも、それ以上のものを望んだとき、不意に時間は止まってしまった。ハンマーで心臓を叩き潰されるような痛みと、鞭で首を締め上げられるような苦しみに耐えることを僕に強いる。
あなたのことを思い出しては、僕はその苦しみに耐えなければならなかった。
「あのね……もう、会えないかも……うん、会えないの」
たった一本の電話で、あなたは僕の世界の時計を止めてしまった。でも、その時計も少しずつ時を刻み始める。積み重ねたときは、あなたとの溝を決して埋めることができないほどに深くえぐり、幅を広げていく。
僕は、泣いていた。
螺旋階段――雨の日、二人がそこで愛し合ったことも望郷のかなたへと消えうせてしまい、あなたの吐息や囁きも、僕の耳に聞こえなくなった。あなたの顔さえ思い出せなくなってしまった僕は、それでもあなたの肌のぬくもりを忘れたことはなかったのは、あなたは僕にとってそういう存在――青春というあやふやな、それでいて決して忘れることのできない、あるいは消えることのない心の傷であったのかと、僕を惑わせる。
あの日、あの時、僕らは愛し合っていたのだと、そして一人身をもだえながら過ごした眠れぬ夜、夜中に家を抜け出し、アスファルトに寝そべってみた都会の星空、あさぼらけの中で頼りなげに空に浮かんでいた青白い月。それははみんな、そこにあったのだ。
そう、君はそこにいたのだ。僕と一緒に。
僕一人で積み重ねた時は、あの頃のあなたより、僕を少しだけ大人にした。だから僕は今、あなたのことを「君」と呼ぶ。この世界のどこかに君がいるのでだとしたら、それはきっと『君』でもなければ『あなた』でもない、僕とはまったく違う時間を過ごし、決して交わることのない世界と時間軸にいるほかの存在であるはずだと、僕は思う。
すべてが愛という言葉で集約できないのだと知ってからは、そうではなかった頃の自分を懐かしみ、あなたと、そして僕の間には、どんな形にしろ『愛』はあったのだと、信じられる自分でありたいと思う。それが間違いや錯覚であったとしても……
僕は再び前を向き、坂道を降りていく。あの螺旋階段を登りきったところから見えた景色をこの目で確かめるために。
あさぼらけ――あなたの部屋から出るとき、あなたは部屋の中からそっと外を覗いて、人気を気にする素振りを見せながら、僕にささやく。
「明け方の月はどこか儚げね。きらいよ、わたし」
次にいつ会えるかと、聞こうとして、いつもはぐらかされる。でも、確かにあなたの言うとおり、明るみだした空に溶けていく月を眺めていると、満月の狂おうしさのほうが、まだ、ましに思えた。僕は酔っていた。恋という酒に酔い、愛という小さなともし火を見失っていた。
もしかしたら、あなたはその小さな小さなともし火を見ていたのかもしれない。僕に見えないものを、見ていたのかもしれない。
運命のいたずらは、いつか君と僕を鉢合わせるのかもしれない。そのとき僕は、君に何を語ろう。君に何を聞こう。でも、僕は知っている。
奏でられる旋律は
おそらくある程度
決まってるんだ
『メロウ―螺旋階段の君ー』 完




