第九話 喪失
無遠慮な距離にあなたを置くことを、僕の中の何かが許そうとしなかった。それは自意識が過剰なせいなのか、ただ、あなたに自分の弱い部分を見せたくなかったのか。僕の心は晴れることはなかったし、それでも雲の隙間から見えるわずかな光は、僕の縮こまってしまった心を癒すには十分なくらいだった。あなたはいつでも僕の注意を引くような存在であり続けてくれた。最期の時まで……
その理由を知りたい。ただそれだけだった。あなたが逢えないというのであれば、きっともう、逢えないのだろう。最期がどんなにみじめでも、何も知らないままに時を過ごすのは地獄のような苦しみに思えた。知ってしまったことで苦しむのかどうかは、知るまではわからない。わからない痛みよりもわかっている痛みをどうにかしたい。ただそれだけでしかなかった。いや、それすらも後から考えついたことで、あの時は、あなたに逢えない事実を受け入れることができずに、無遠慮を装って、泣きついただけなのだ。
最近知り合った男がいるのだという。その男は今のバイト先――要はキャバクラの客である。そんな男にものの見事にあなたを寝取られたのか?
言葉汚く自らをののしり、さげすみながら僕は歩いた。
待ち合わせの場所――そこは僕とあなたが初めて二人で会ったファミリーレストランだ。なんて皮肉なんだ。どこまでもよくできた話だ。しかし、僕には選択する権利はなく、拒むべき理由も僕の中にしか存在しなかった。それは本当に小さな小さなことでしかないのかもしれない。それでも今の僕を傷つけるには十分なほどに、僕は弱っていた。
「実は、いろいろと彼に相談していたの。彼にはすべて話したわ。あの人のことも、ふー君のことも」
あなたは僕が聞きたいようなことをまるで全部わかっているかのようにわかりやすく、簡潔に、無駄なく話してくれた。僕はうなずくしかなく、コーヒーが冷める暇もないほどに用件は終わってしまった。そんなことで――そんなことで終わってしまうような関係だったのか? でも僕いには何も言えない。
紹介された男は、まるで非の打ちどころもないような普通でまじめで、しかも理路整然としていた。彼の話には嘘もなければごまかしもない。僕と同じようにあなたを――いや、彼女を心配し、大事にする気持ちが伝わってくる。そしてそれを実行するだけの器量がありありと見て取れた。そう、彼は大人なのである。僕はただの音楽好きの学生でしかない。
何を 拒むことが できるというのか
僕はもう、あなたの――彼女の顔を直視することができなかった。
「キクちゃんを、大事にしてあげてください。僕にはできなかったけど……お願いします」
「約束するよ。ありがとう」
なんで『ありがとう』なんだろう? なんで『お願いします』なんだろう? なんで握手をしているんだろう?
こんな滑稽な別れ話があっていいのか?
店を出て、僕は握手した右手を眺め、思わず胃の中のものを出しそうになり、手で口を押えた。現実感を喪失したまま、僕は部屋に閉じこもり、そして泣いた。何もかもが恨めしく思え、何もかも壊したくなり、そんな自分を責めては毛布にくるまり、あなたの柔肌を想像し、それに反応する自分の体を恨めしく思い、自らを慰めた。
僕は、あなたを 失った。
一本の電話で 終わってしまう。
そんなものだったのだ。
それだけのものだったのだ。
ただ、それだけなのだ。




