第一話 砕け散った心
何の前触れもなく訪れた悲劇の前に、僕の心は見るも無残に砕け散った。あなたを失うということをまるで考えもしていなかったし、考えないようにしていたのだから、まったく無防備なところに巨大なハンマーを振り下ろされたようなものだった。抵抗することもなく、身構えることもなく、ただ、バラバラになってしまった心の欠片の一つ一つを拾い上げて、眺めるしかなかった。そして、そのたびに僕の指は傷つき、感覚を失っていった。
心の痛みはやがて、当たり前のように身体を痛めつける。人を思う気持ちが、こんなにも自らの身体を痛めつけるものだと知ったとき、僕は臆病になった。それはろうそくの火に手をかざして火傷をしそうになった子供が、火傷をするかしないかのスリルを味わうようなゲームとは違う。つめたい氷を触り続け、感覚がなくなったところに大怪我をしてしまったような、傷ついたときには感覚がなく、後からじわじわと痛みが増してくるような嫌な感覚。
もう誰かを愛するなんて怖くてできない。
あなたを失った僕の心は常に緊張し、あなたのことを思い出すたびに胸が苦しくなる。それが始まると、しばらくほかの事は考えられなくなる。あなたの名前、あなたの声、あなたの匂い、あなたに繋がる全ての記憶が苦痛へと代わる。あなたを忘れることなどできない。
だから苦しい。
永遠に続くかのような苦しみは、それが永遠に続くのだと僕がわかるまでの間、常に僕を苦しめた。僕がそのことに気づき、理解し、その傷を自分の一部だと認めることができるまでの歳月は、目に映るもの全てが恨めしく思えた。あなたと『別れた』という事実より、あなたを『失った』という真実は残酷だった。
そう、僕は、あなたを失ったのだ。
それは何気ない一本の電話。僕からかけたのか、あなたからかけてきたのかその記憶もない。
「もしもし、うん、うん、そうなんだけど……あのね」
最初の会話がぎこちないのはいつものことでだ。僕はあなたがどんな格好で、どんな顔をしながら電話をしているのかを思い描きながら言葉を選んでいく。しかし、その日、その電話のときには言葉が見つからなかった。あなたの心はそこにはなかったのかもしれない。用件を言わなければと、今度いつ会えるかとその話を切り出す。どうにも格好が悪いが仕方がなかった。
「もしかしたら、もう、あまりあえないかもしれないの」
一つ一つの言葉の意味を僕は理解しようとして失敗した。
「えっ?」
沈黙はさほど長くはなかった。しかし、その間は、その言葉が冗談ではないことを何よりも語っていた。僕にはそれがわかってしまった。わかりたくないことをわかってしまったとき、人はそのことをもう一度確認しようとする。
「どうして?」
ちがう。どうしてかなんて聞きたくはない。この質問は間違っている。しかし他にどうすることもできない僕は、その質問の答えを待つしかなかった。
「ふー君だけじゃないの。もう彼とも会わないことにしたのよ」
答えにならない答えが、時にはすべてを言い表すこともある。受話器から聞こえるあなたの声には迷いというものがなかった。しかし戸惑いは感じられた。そのわずかな揺らぎが僕にわがままを言う隙を与えた。
「電話だけじゃわかんないよ」
あなたは目をつむり、何かを考えている。僕はそんなあなたの姿を電話口の向こう見ていた。あなたは沈黙で僕に語りかけ、僕はそれを拒否した。僕は泣き出しそうになっていた。それから先のことは惨め過ぎて覚えていない。記憶がすっかり飛んでしまっている。しかしその惨めさの感覚はしっかりと残っている。残っているからこそ、それは僕の慰めとなっている。あなたを失ったことへの代償――その惨めさが、ある程度帳消しにしてくれたからである。
それほどに、僕は 傷ついた。
あのときのことを思い出すのは苦痛以外の何物でもない。しかし、その痛みを感じることは、あなたを――君を感じることに他ならない。君はあの日のままのあなたでい続ける。あなたを失ったその大きな穴を埋めることなく僕は生きてきた。会えるはずのない君が、あなたのままでいるかぎり、僕はあなたを失ったままでいいと思っている。でも、あの頃の僕には何もわからなかった。何もわからないまま狂うしかなかった。
僕にとって一人で夜を過ごすということは、狂ってしまった自分自身を見張る夜でしかなかった。気を抜けばすぐに家を抜け出し、夜の街にあなたの姿を捜して回る。僕の心は――いや、心以上に僕の身体があなたを求めていた。あなたのぬくもりは、あなたでしかないと気づくまでに、僕は自分自身と、他の誰かを傷つけるしかなかった。
砕け散った心はもとには戻らない。
あなたを知ってしまった以上、あなたを知らなかった自分には戻れない。あなたを失った自分は、いったいどうなってしまうのだろう。無機質な疑問が僕の心に突き刺さる。
僕は、あなたなしで 生きていけるのだろうか?
哲学じみた問いに、僕は呆れてしまうだけだった。季節は春になろうとしている。あなたと僕の間の変化は、その一月ほど前から現れていた。でも、僕には何の予感もなかった。でも、今でもそう言いきれるかどうかは疑問が残る。あなたがホステスのアルバイトを始めると言った時、快く思わなかったのは確かだった。




