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第五話 1987年

 1987年――10代最後の年。5月のゴールデンウイークをすぎれば、僕は二十歳になる。その前に男になれたことは、どこか僕に余裕を与えてくれていた。そんなことはたいしたことではない。そう思えるのは、そうなったからであって、もしも女性を知らずに二十歳を迎える事が確定しそうであれば、なにか違うことをしていたかもしれない。金で女を買うという発想は、当事の僕の中にはなかった。


 彼女とデートで映画を見に行く。そういうことは、ごく当たり前のデートコースだったと思う。有楽町や渋谷に出て、映画を見るのだとすれば、男友達となら渋谷。女の子となら有楽町。僕らは勝手にそう、決め付けていた。渋谷の街は、ごちゃごちゃとして、同年代の若者で溢れていた。それは今も当事も変わらないのだろう。食事は気楽なファーストフード、映画を見終わったらタワーレーコードやディスクユニオン、シスコといったレコード店をはしごし、楽器店を見て回った。東急ハンズでものめずらしいものを眺めるだけでも時間が潰せた。


 有楽町は、場所によっては雑多で、どこかサラリーマンの郷愁が漂う場所もあるが、メインストリートは道路が広く、建物も整然としていた。何よりもそこを行き交う人は、渋谷に比べれば圧倒的に大人であり、生活観のかけた不思議な街に見えた。同じ楽器店でも渋谷のそれとは全く違う、クラッシクのにおいがした。世はバブルの絶頂期に入り、ブランド物の服に身を包んだ若者が、街の中を席巻していた。僕のように髪の長く、ジーンズに穴が開いているような格好をしている人間は、渋谷ほどにはすれ違わなかった。


 あなたはといえば、まるでそんなことは気にはしないといった感じで、僕に寄り添って歩いてくれる。寄り添うというよりは、腕を組むでもなく、手をつなぐでもなく、それでいて他人行儀じゃない距離。あなたの息遣いや鼓動、シャンプーや石鹸の香り、冬の冷たい空気にさらされた冷たくなった肌の温度が感じられるような間合いを出たり入ったりしていた。冬のピント張り詰めた空気は、僕のあらゆる感覚を鋭敏にし、あなたの暖かな部屋にいるときよりも、あなたの存在を意識させる。


「楽しみー」

「そうだね。前から観たいと思っていたから……」

「うん。そうね。怖い映画観るの久しぶり」

「そんなに、怖くはないかもよ」

「でも、楽しみ」


 あなたは有楽町に向かう電車の中で、まるで少女のようにはしゃいでいる。僕はといえば、そんなあなたに困惑しながらも、確実にあなたに魅惑されていた。あなたは飾らず、気負わず、どこまでも自然体で、それはまるでずっと昔から僕が慣れ親しんできた風景のように僕の目の前にいた。細身のジーンズにローファーの革靴は、活動的で短い髪に似合っていた。チェックのシャツの上に羽織ったカウチン風のセーターは、少し少女っぽいデザインのように見えるが、それがかえってあなたの色香を際立たせているように僕には思えた。


「冬の空って、きもちいいよね。こう、空の上まで突き抜けていく感じが」

「私も冬の空は好きよ。夏は苦手。ギラギラしていて」

 電車から降り、正月気分の抜けきらない街の空を見上げる。いつもよりも空気が澄んで見えた。冬の暖かな日差しの中で、あなたは他の誰よりも美しく輝いて見てた。そういうふうに、見える事があるのだと、僕は初めて知った。


「有楽町に降りるの久しぶり。ふー君は良く来るの?」

「中学生のころは良く来てたよ。電車賃けちって自転車でさ」

「へぇ、銀座に自転車って、なんかすごいわね」

「子供だったから、そういう事が平気でできたんだよ」

「デートで映画観たことある?」

「ない」

「そうなんだ」

「女の子と映画を観たことはあるけど、デイトじゃなかった」

「女友達とか?」

「うーん。なんというか、友だちだけじゃないけど……」

「いろいろとあったんだ」

「そりゃあ、それなりにあったよ。でも、なんでかな。映画って難しいよね」

「難しい?」

「ほら、観たい映画ってさ。必ずしも二人が本当に観たい映画があるとは限らないじゃない?」

「そんなものかなぁ?」

「だって、アイドルが出ている映画を一緒に見に行こうって言われても、どういう反応していいのか――」

「そういうのダメなんだ?」

「ダメっていうか……苦手?」


 取り留めのない話の中でも、僕はあなたが時折見せる表情に何度もときめかされていた。僕は一人で舞い上がりそうになるのを必死でこらえていた。僕はあなたに見蕩れ、焦がれ、溺れていた。


「大丈夫そうだね。そんなに混んでない。いい席で見れそうだよ」

 映画館の前に着いたのは午前の部が終わる30分前だった。前から約束していたSFホラー映画「ザ・フライ」は、古い映画のリメイクであり、簡単に言えばハエ人間になってしまった科学者の悲劇を描いた映画だ。子供の頃からSF映画が好きだった僕は、どうしてもこの映画が見たかった。あなたに見せたい映画というわけでも、一緒に観たい映画というわけでもない。僕は観たいといい、あなたは一緒に行きたいといった。でも、それが、とてもとても、うれしかったのだ。


「結構グロテスクなシーンはあると思うよ。まぁ、ホラー映画じゃないから、そんなシーンばかりじゃないと思うけど」

「怖くなったらしがみついてもいい?」

「どうかな、それで僕が大声出しても、逃げ出さないでね」

「ふー君も怖いの苦手なの?」

「得意じゃないよ。ただ、この映画だけは、前から気になってたから……」

「なんだっけ?古い映画のリメイクなんだっけ?」

「そう。子供の頃、SF映画が好きでさ。SF映画を紹介する本とか買って読んでたんだ。その中にあった作品がリメイクされるってすごくない?」

「男の子はそういうの好きよね」


 あなたは時々、僕を子ども扱いする。最初、僕はそれに戸惑ったけれど、あなたは今の僕とではなく、少年の頃のボクと話すような――まるで時空を越えて過去のボクに話しかけるような話方をした。なぜだかわからないけど、僕にはそれが、とてもうれしかった。


 まったく違う生活をしている二人に、共通の話題などそれほど見つからない。映画が始まるまでの間、二人の会話が途切れなかったのは、今にして思えば不思議な気がする。僕はあなたに僕自身のことを知ってほしくて、まるで子供が母親に外で遊んできたことを報告するかのように、いろんな話をした。始めてみた映画のこと、一番怖いと思った映画、好きな役者。好きな監督。思わず涙してしまったシーン……


 やがて、午前の部の上映が終わり、映画を観終わった客といい席を取ろうとする客で一気に慌しくなる。僕らは素早く席を決め、まるで指定席に座るかのようにすんなりと思った場所に席を取ることができた。あなたは荷物を置いてすぐに売店に行き、飲み物とパンフレットを買ってきてくれた。僕は素直にあなたの行為に甘え、パンフレットをめくりながら、役者について、監督について話をしながら映画が始まるのを待った。やがて照明がおち、映画が始まる。僕はあなたの手を握ることも忘れて、映画に没頭した。



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