EP9 深層の罠
【ダンジョン15階層・深層域入口】
地下十五階層を過ぎたあたりから、空気の粘度が変わった。
肌にまとわりつく湿り気は、腐葉土と錆びた鉄、そして濃密な魔素が入り混じった独特の臭気を孕んでいる。光苔の燐光は青白さを増し、岩肌の影をより深く、より昏く縁取っていた。
ここからが深層。生半可な冒険者であれば、その重圧だけで足がすくむ領域である。
だが、この四人にとって、そこはただの通り道に過ぎなかった。
「ブモオオオオオッ!」
鼓膜を震わせる咆哮とともに、暗闇から巨影が躍り出る。
ミノタウロス。牛頭の巨人が振り上げた戦斧は、人の胴体ほどもある厚みを誇っていた。筋肉の鎧を纏ったその質量が、突進の勢いを乗せてアルフレッドへと迫る。
アルフレッドは眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、無造作に短杖を向けた。
彼我の距離は十メートル。巨人の歩幅ならば二歩で詰められる死の距離だ。しかし、魔術師の表情には焦燥の一片すら浮かばない。
「――構成省略。接続」
唇から紡がれるのは、極限まで圧縮された詠唱プロセス。
本来ならば長大な共通語による賛美と定義が必要な術式を、彼は脳内の演算のみでショートカットする。必要なのは、世界に干渉するための鍵となる古代の言霊のみ。
「凍てつけ、『Izozte』」
刹那、大気が悲鳴を上げた。
杖の先から爆発的に膨れ上がった冷気が、物理的な衝撃波となってミノタウロスを打ち据える。
巨人が踏み出した右足が、床石ごと白銀の氷塊に閉ざされた。慣性の法則に従い、上体だけが前へつんのめる。戦斧が虚しく空を切り、巨体は無様に地面へと激突した。
「硬いな。やはり表層の個体とは魔力耐性が違う」
アルフレッドは氷漬けになった巨人を冷淡に見下ろし、次弾の装填を済ませる。
その背後、死角となる闇から、獅子と山羊の頭を持つ異形――キメラが音もなく飛び掛かった。
狙いは後衛のアルフレッドではない。遊撃に出ていたライナスだ。
蛇の尾が鞭のようにしなり、毒牙が盗賊の喉元へと迫る。
「っと、危ねえ!」
ライナスは猫のような身軽さでバックステップを踏み、毒牙を紙一重で回避する。だが、着地を狙ってキメラの獅子頭が顎門を開いた。
回避行動で体勢が崩れている。絶好の捕食タイミング。
――常人ならば。
「はい、そこ通りますよーっ!」
場違いなほど朗らかな声が、殺伐とした戦場に響いた。
ライナスの横合いから、白磁のような肌をした修道服の少女が割り込む。セシリアだ。
彼女は襲い来るキメラの巨体に対し、武器を構えるどころか、まるでダンスのパートナーを迎えるように両手を広げた。
獅子の爪が彼女の柔肌を引き裂く寸前、セシリアの手のひらがキメラの顎の下と前足の付け根にふわりと触れる。
聖竜術――合気の理合いに、竜のごとき膂力を乗せた理不尽な体術。
「よいしょっと!」
掛け声は、洗濯籠を持ち上げる時のように軽やかだった。
しかし、発生した現象は災害に近い。
数トンはあるはずのキメラの巨体が、触れられた一点を軸にして、木の葉のように宙へと舞い上がったのだ。
遠心力とセシリアの怪力が融合し、哀れな合成獣は制御不能の砲弾となってすっ飛ばされる。
その射線上にいたのは、体勢を立て直したばかりのライナスだった。
「わっと! 姉さん、こっちに投げないでよ!」
「あら、ごめんなさい! つい手元が狂っちゃって」
「絶対わざとだろ、それ!」
ライナスは口では悲鳴を上げながらも、その瞳は冷徹に獲物を見据えていた。
飛来するキメラに対し、自らも飛び込むように加速。すれ違いざま、双短剣が銀色の軌跡を描く。
一閃、二閃、三閃。
空中で身動きの取れないキメラは、為す術もなくその四肢と翼を切り刻まれた。
血飛沫が舞う中、肉塊となって地面に落ちた時には、既にその命の灯火は消えていた。
「おーおー、元気だねえ。若いのが張り切ってると、おじさんは楽でいいや」
遅れて響く重低音。
ガンダルが巨大なウォーハンマーを肩に担ぎ、散歩でもするかのような足取りで現れる。
彼の足元には、いつの間にか頭部を粉砕されたガーゴイルの残骸が転がっていた。漏れた敵を、笑い声一つで潰してきたのだ。
「おい、手を抜くな。 前に出てラインを上げろ。 こんなペースでは楽しくなれんだろ」
アルフレッドが氷の彫像と化したミノタウロスを杖の一突きで粉砕しながら、冷静に指示を飛ばす。
「へいへい。アルの旦那は人使いが荒いねえ」
ガンダルは苦笑しつつも、その巨体からは隠しきれない闘気が立ち昇っていた。
四人は淀みない動きで陣形を整え直し、更に奥へと進んでいく。
【ダンジョン20階層・回廊】
階層を下るごとに、襲撃の頻度は増していった。
だが、Sランクパーティの歩みは止まるどころか、加速しているようにさえ見えた。
「深層と言っても、この程度か」
ライナスが短剣についた血糊を振り払いながら、退屈そうに欠伸を噛み殺す。
彼の足元には、上位種であるはずのアーマード・リザードが、その自慢の装甲ごと切り裂かれて転がっていた。
「油断は禁物ですよ。ですが……確かに、手応えは薄いですね」
セシリアが聖水を指先に纏わせ、仲間の装備に付着した瘴気を浄化しながら同意する。
彼女の顔には疲労の色はなく、むしろ適度な運動をこなした後のような艶があった。
「我々の連携練度が上がっている証拠だろう。個々の技量も、前回の遠征時より向上している」
アルフレッドは地図を広げ、現在の座標を確認しながら淡々と分析する。
彼らの強さは、単なる個の武力ではない。互いの呼吸、視線の動き、魔力の高まりを感じ取り、言葉を交わさずとも最適解を導き出す阿吽の呼吸にある。
「そりゃあね。あの『地獄の特訓』を生き抜いたんだ。これくらいでへばってちゃ、ギルド長に笑われるぜ」
ライナスが肩をすくめる。
ガンダルが「違いない」と豪快に笑い、ハンマーの柄で床を叩いた。
「ま、ここまでは準備運動みたいなもんだろ。本番はこれからだ」
彼らの視線の先、回廊の突き当たりに、禍々しい装飾が施された巨大な扉が鎮座していた。
二十四階層への入り口。
すなわち、このエリアを統べる守護者の部屋である。
扉の隙間から漏れ出す魔力は、これまでの道中とは比較にならないほど濃密で、肌を刺すような殺気を孕んでいた。
「さて」
アルフレッドが眼鏡の位置を直し、杖を握り直す。
その瞳の奥で、知的な光が鋭く煌めいた。
「お前ら準備はいいか? 仕事の時間だ」
セシリアが祈りを捧げるように手を組み、ライナスが獰猛な笑みを浮かべて短剣を逆手に持ち替え、ガンダルが首を鳴らしてハンマーを構える。
Sランクの威圧感が、深層の闇を塗り替えるように広がっていった。




