第三十四話 声は夢を揺らす
「……ネリュス……」
名を呼ぶと、屋根の上の影がすっと立ち上がる
ただの呼びかけじゃない。敵か味方かもわからない相手に、言葉を向けるというのは、思った以上に勇気がいることだった。
月明かりを背に、赤髪の少女がこちらを見下ろしている。蝙蝠の羽、ボンテージ風の艶やかな衣装、そして、夜目にもはっきりわかる赤い瞳。
その姿は、どこか現実感に欠けていて、それでいて強烈に“異質”だった。
「こんばんは、誠一郎くん。……もう起きちゃったんだね」
声は軽く、ひょうひょうとしている。けれどその裏に、何かを測るような気配を感じる。
「……この村を眠らせているのは、君なのか?」
問いかけると、ネリュスはわずかに目を見開き、意外そうに微笑んだ。
「そうだよ。でも安心して。みんな、ただ幸せな夢を見てるだけ。……それで、君はどうするの?」
「どうって言われても………理由を聞きたい」
その言葉に、ネリュスはくすりと笑った。
「へぇ……この状況で、魔物を前にして対話を求めるんだ。……変わってるね、君」
そう言って、彼女はくるりと一回転しながら屋根の端へと移動し、ふわりと舞い降りてきた。
落下というより、月の光に溶け込むような、滑らかな浮遊感。着地の瞬間、足元に淡く薄紅の魔方陣が灯り、その中心に立った彼女は、無邪気な笑顔で告げる。
「わたしね、夢魔なの。つまり今は……“お食事中”ってこと」
「……“食事”って、人間の夢のこと?」
「うん♪ 特に幸せな夢はね、とびっきり美味しいの。満ち足りた気持ちとか、安心した心とか……そういうのが、わたしのエネルギーになるの」
少し胸を張るようにして言うその様子は、どこか誇らしげだった。
俺はほんのわずか考えてから、静かに頷く。
「そうか。じゃあ……別に、害はないってことか」
ネリュスの目が、一瞬だけ細くなる。
「……あるって言ったら?」
その瞳が、ぞくりとするほど艶やかに揺れた。
まるで試すような、こちらの心の揺らぎを覗き込むような……そんな視線。
「……止めて欲しいって、頼む」
そう言った時のネリュスの表情は、まるで冗談を聞かされたかの様に笑う。
「……あはははっ……! なにそれ、面白い。まさか本気で言ってるの? 魔物相手に『やめて』ってお願いする人、初めて見たよ」
笑いながらも、ネリュスの目は俺を見定めるように細められていて軽口の裏に、何かを測ろうとする意図も見える
「……でもなぁ、誠一郎くんが起きちゃったのは予定外だったんだよねぇ」
視線がふっとマリィに向けられた。
「しかも、マリィちゃんまで……変だな。ちゃんと“おまじない”かけたはずなんだけど」
「ばくぉ」
俺の腕の中で、マリィが不満げに小さな声を上げる。
「雑魚……とかそういう言葉、良くないよ」
思わず苦笑しながら彼女の頭を撫でると、マリィはどや顔で俺の胸にぐりぐりと頬を押しつけてきた。
その様子を見ていたネリュスの笑みが、ピタリと止まる。
「君……私のこと、舐めてるよね?」
その一言とともに、空気が凍りついたように冷たく変わり、地を這うように魔力が唸られネリュスの足元で石畳が軋む。夜の空気が捻じれる。
「……ちょっと、ムカついちゃった。」
その呟きの直後、彼女の周囲に複数の魔方陣が浮かび上がる。淡い色彩とは裏腹に、そこから感じる圧は鋭く、刺すようだった。
「仕方ないなぁ……じゃあ、誠一郎くん。私が、“強制的に”おねんねさせてあげるね♡」
その声が落ちきる前に、ネリュスが指を弾く。
空中に紅蓮の光弾が出現し、花弁のように開いて回転を始める。魔力の奔流が渦巻き、夜の空に色を塗る。
「《夢喰の誘い》──ッ!」
直後、炸裂する閃光。視界が焼けるほど白く染まり、頭の奥に圧がかかる。まるで意識をひきずり落とされるような――多分精神支配系の魔法か何かか。
くるッ!
マリィをかばうように抱き込み、反射的に体を沈めた
けれど――
何も起きなかった。閃光が収まり、耳鳴りが消えて、意識もはっきりしたまま。
視界は澄んでいて、頭も冴えている。
「……あれ?」
ネリュスの声が先に揺れた。
「……えっ? うそ、ちょっと待って……今の、効かなかったの?」
次の瞬間、彼女は焦ったようにもう一つの魔方陣を呼び出す。銀色の輪が足元に広がり、両手で印を結ぶ。
「《悦夢の囁き》……気持ちよ〜く、とろけて……♡」
甘い香りが風に混じり、脳を撫でるように届く。さっきよりもずっと繊細で、柔らかい魔力。
だが――
「……なんか、香水くさい。頭痛くなってきた……」
「……あぅま」
「ちょ、ちょっと待って!? 女の子の魔法に向かって“臭い”とか!? 最低なんだけど!? 」
顔を真っ赤にして叫ぶネリュスを横目に、俺はゆっくりと首を回す。
やっぱり、なんともない。視界ははっきり、頭も冴えてる。
けど、これは単なる精神耐性なんかじゃない。
マリィの影響か? それとも……俺自身に、そういう“性質”があるのか?
思い出せない。でも、確かに違和感がある。
「……誘惑魔法、まだ三つ残ってるから! 次はもっと強いやつで――」
そう口にすると、顔を真っ赤にして叫ぶネリュスに、俺はふと、言葉が漏れる。
「……舐めてるって言うか……安心してるんだよ。君って、本当は優しいから」
「……は?」
ネリュスが動きを止めた。
「ちゃんと対話してくれる。怒ったり、焦ったりしながらもちゃんと気遣ってくれてる。」
「ーーッ そ、それは君が話を」
「俺、わかるんだ 子供相手でも容赦なく剣を振るう大人を見たから……けど君はずっとマリィを気遣ってくれてる。」
「……知った風な口効かないで」
ネリュスの声が低く、冷たい。
「私が、優しい? じゃあ……私が“どうやって”人を眠らせてきたか、君は知ってんの?」
「それは……知らない。けど、今ここで話してる君は嫌いになれない」
「……あははは……バカじゃないの?」
声が震わしながらネリュスが地を踏み鳴らす。
「なら……お望み通り本当の”私”を見せてあげる」
魔力の爆風が吹き上がり、地面が一瞬ぐらりと揺れる。
「狭間の門よ――開け《夢界門》──!」
轟音と共に、ネリュスの足元に赤黒い魔方陣が広がり、空間が裂ける。否、捻じ曲がる――空気が軋み、音がねじれる。
そして、その中心から、黒く揺れる影が、ぬるりと這い出てきた。
仮面をいくつもぶら下げた、異形の巨躯。ずるずると鎖を引きずり、獣のようで、どこか人に似た“なにか”……かつての異形に似た何かが……口はなく、眼もなく、それでもこちらを見ている。
一歩足を踏み出すたび、周囲の温度が急激に下がっていく。
「……これは……異形?………」
俺は、思わず後ずさった。
体が拒絶反応を起こしている。理屈じゃない。見るだけで“触れちゃいけない”って、本能が叫んでる。
マズい……マリィを抱えたまま、対応できるか……?
背筋にじわりと汗が滲んでいた。この空気。この魔力。冗談抜きで一発でも食らえば終わるかもしれない。
そんな俺の前で、ネリュスはぽつりと呟く。
「……これが、わたしの師匠が遺した魔法。狭間の主より託された召喚獣、《夢喰獣グラシュ=アム》」
その目は、どこか遠くを見つめている。
「……戦場で夢を殺し、心を喰らう……“兵器”。わたし……これで、たくさんの人を眠らせた。二度と、目覚めない様に」
言葉を詰まらせ、ネリュスは笑う。乾いた、自嘲にも似た笑いだった。
「……それでも、子供の寝顔を見ても平気でいろって言われてッ……」
「……ネリュス……」
「だからさ……」
ネリュスがゆっくり顔を上げた。その目には、怒りとも悲しみともつかない熱が灯っている。
「“優しい”とか……私の事知った気になるなッ!!」
その叫びとともに、彼女が右手を振り上げる。
「──グラシュ=アム! 目覚めろッ! 私の敵を、“眠らせろ”!」
咆哮とともに、獣が地を蹴った。
重々しく、だが滑らかに、黒い巨体が前に出る――はずだった。
だが。
「……え?」
止まった。動きかけた巨獣が、そのまま、ぴたりとその場に膝をついたのだった。
「なん……で……?」
ネリュスの声が震え、俺も思わず息を呑んだ。
……どういうことだ……
巨獣が、ゆっくりと顔を上げる。その顔に、勿論、表情はない。けれどなぜか“目が合った”気がした。
……いや、確かに、見られている。
俺の、奥の奥を、何かと繋がってる部分を――
じっと、のぞき込まれているような感覚。
そして、次の瞬間――
グラシュ=アムは、俺に向かって、頭を垂れる……まるで、忠誠を示すように。臣下が、主に跪くように。
「……なんだよ、これ……」
思わず漏れた声に、マリィが腕の中で動く。
「ぺち」
小さな手が、獣の額を軽く叩き、その仕草が妙におかしくて、俺もつられるように、ゆっくり手を伸ばし――その異形の頭を、そっと撫でてやる
ざらついた、でも、どこか懐かしい手触り。あの時を思い出す。
「……おまえ……俺を……知ってる?……」
無意識の言葉が、口を突いて出て、ネリュスは――へな、と膝から崩れ落ちた。
「……な……なんで……」
震える声。
「……ど、どうなってんの……私の召喚獣が……」
その目は、ただ驚いているだけじゃなかった……恐れ……そして、どこか、認めてしまったような色を感じる。
「……君……ほんと何者なの……?」
「俺は……俺だよ。」
そうとしか答えられなかった。だって、もう俺自身――わからなくなってしまったから
ただ一つだけ言えるのは、今、俺はこの世界の”外側”と繋がってしまったのだと……そんな実感だけが、はっきりと残ったのだった。
腰を抜かして座り込む彼女の前に俺は立つ。するとネリュスは俺を見上げながら僅かに震えていた。
「……ごめんなさい。」
すかさず彼女に頭を下げてお願いする。
頭を下げる理由は、いくつもあったけど――一番はきっと、自分自身の“無理解”への後悔だった。
「明日には村から出ていくし、君の正体は誰にも言わないから」
「……え」
「モチャとラグ姐を夢から返してください。お願いします。」
沈黙が、夜の底に沈んでいき、俺の言葉に、ネリュスはただ、呆然としたようにこちらを見ていた。
月明かりの下、赤い髪が風に揺れる。
「……なに、それ……そんなの……」
やっと絞り出した声は、どこか幼い響きを含んでいた。
「どうして……謝るの。勝ったのは、君の方なのに」
「勝ち負けじゃない。」
俺は彼女の瞳をまっすぐに見て言う。
「……悪気は無くても俺は君を怒らせた。何も知らないのに踏み込んじゃったから」
マリィは俺の腕でもぞもぞと動いてネリュスの頭に向けて手を伸ばした。
俺は察してマリィをネリュスに近づけてやる。
マリィに撫でられるネリュスは、口を開きかけて、何も言えずに閉じて唇が震え、目が揺れていた。
まるで、自分の中で何かが崩れていくような――そんな表情。
「……そんなの……ズルい……」
ぽつりと、まるで涙のようにこぼれた言葉。
「勝手に踏み込んで……謝って……挙句には撫でるなんて」
そう言って、ネリュスは顔を覆う。しゃくり上げるような呼吸の音が、夜の静けさに溶けていく。
俺は黙って、その場に立ち尽くす。何も言わず、何も求めず。ただ、彼女の涙が止まるのを、待っていた。
やがて――
「……ったく……馬鹿みたい……」
ネリュスは顔を上げると、ぐしっと袖で目元を拭い、小さく息を吐いた。
「……安心して。ちゃんと夢は解いてあげるから。そもそもずっと眠らせるつもりもなかったしね」
ふわりと指を振ると、遠くの家々から、何かがほどけるような音が聞こえた。
「でも、勘違いしないで。これは……あんたが謝ったからでも、勝ったからでも、撫でられたからでもない」
彼女はそう言って、いたずらっぽく笑う。
「……私が、“優しい”から、なんだからね?」
「ありがとう。」
俺がそう返すと、ネリュスは頬を赤くして、プイとそっぽを向いた。
夜風が、村を撫でるように吹き抜ける。赤い髪が揺れ、月光が静かに差し込む。
今この瞬間だけは、夢も現も、悪も善も、優しさも――すべてが等しく夜に溶けていくようだった。




