10. 三弦琵琶の音色も沙に還らん ✩
恐怖と驚きのあまり、カナヤは声も出なかった。さもありなん、目の前には身の丈4ルシュもあろうかという食人鬼。躰はこわばって、息もつけぬ。
それでもなんとか食人鬼の手を掻い潜り、一度は身をひるがえした吟遊詩人だったが、しっかと三弦琵琶を抱えていたせいであろうか、敷物に足を取られ横転してしまった。
したたか腰を打ち、痛みで動きが鈍った。
「吟遊詩人!」
泣き叫ぶ少女の声で、カナヤはもう一度食人鬼の腕を掻い潜ることが出来た。だが上手く立ち上がることが出来ず、敷物の上で震えおののく彼の足を食人鬼が掴んだ。
赤い眼が、ギラリと光る。
「ひいいぃ!」
食人鬼は怪力で、捕らえた獲物の足を片手で掴むと、己が元へと引き寄せる。グワリと開けた大きな口は耳まで裂け、カナヤを喰わんとその奥から舌を伸ばしてきた。
生臭い息が顔にかかる。
恐ろしさで目を瞑る前に、一瞬だけ脳裏に飛び込んできた少女の顔は、カナヤの危機に蒼白になっていた。目を見開き、花弁のような唇を震わせ、狼狽と絶望に凍り付いている。
ほろりほろりと、しずくが頬を伝う。
(笑っている顔の方が、絶対可愛いのに――!)
小さな真珠の精を守らねばならない。その想いが、吟遊詩人の勇気の全てだった。
顔前に伸びてきた食人鬼の爪がすぃと横に動き、彼の頬を掠る。剣先のごとく鋭利な爪は、カナヤの皮膚に傷を付け赤い飛沫を飛ばした。
ヒリリと走った痛みに筋肉が縮み上がる。
怖々と視線を上げれば、爪先に付着した赤い液体を眺め、食人鬼はニタリと笑みを浮かべていた。さらに、彼に覆い被さらんと、腕を高く掲げ上体を傾けてくる。
腕力に自信も無く、大切な三弦琵琶を庇うカナヤには、のしかかる黒い影に抵抗するいとまもなく、圧力に屈し下敷きにされてしまった。
腐臭を顔に浴びせかけられ、意識が遠のく。
「吟遊詩人!」
聞こえる悲痛な叫び声。
少女の声に、手放しかけた正気を取り戻す。吟遊詩人は三弦を抱えなおし、震える指が手探りで第三弦を弾けば――。
低い音が床を這った。
それは三弦琵琶の最低音。他の弦を共鳴させず、単音で、深く揺らす。静かに緩やかに。
摩訶不思議な音が明け方の冷えた空気を振動させる。
聴いた食人鬼の黒い影のような体躯は、弾かれたように飛び上がった。そして突然の圧伏に、耳障りな声を上げながら苦しみだしたのである。
もしその場に居合わせたなら、吟遊詩人を中心に、神秘の音の描く輪を目撃することが出来たであろうか。
それは重音の作り出す、目に見えぬ沙の紋。
強い風に煽られて沙が動いていくように、音の振動が能源となり、波が幾重にも重なりつつ外へ外へと円周を拡げていく様を。
これこそ妖魔払いの、魔除けの音。
「エアの足音」と呼ばれる秘中の技巧よ。
音によって大気に刻まれた沙紋は目に見えぬ盾となり、その中心にいる者を禍から守り、邪なりし悪魔や鬼神の類いを退ける。
よいか。アルイーン神話の最高神、大神エアの足音を現わすと云われるこの音は、限られた人間にしか奏でることは出来ない。ひと握りの楽師たちの間で、門外不出の秘密としてひそかに伝承されてきた技巧なり。
それゆえその技を使える者の数は少なく、また次の世代へと継承する者の数も減り続け、当世となっては「盲目のカル」として名を馳せた伝説の吟遊詩人と、彼亡き後はその最後の弟子であるカナヤのみ。
それほど稀有な音ゆえ、知恵のない食人鬼が知らぬとて無理もなし。
カナヤが奏でた音は十一弦琵琶のそれには叶わぬが、されでも確かに「エアの足音」。三弦ゆえ少々音色にわびしさが混じるが、放たれた音は大神エアの威厳となり、のさばる魔を懲らしめんと重々しく鳴り響く。
たまらぬと、闇の眷属は苦悶の表情と共に異形の身をよじる。ヨロヨロと4ルシュもある長身を起こし、大神の威勢から逃れようと後退りを始めた。
これを見た吟遊詩人は、再び弦を弾く。応じてエアは足を下ろす。
二度三度、妖魔退散と強い思いではじけば、弦は雄々しく大気を震わせる。エア神の怒りに何度も踏みつけられた食人鬼は、もだえながら侵入してきた扉の方向へと向かう。
そのまま振り返ることなく、黒い影は床を転がるように建物から去って行った。
***
荒い呼吸で食人鬼の退却を見届けた吟遊詩人だったが、怯える小さな精霊の存在を思い出し、安否を確かめんと奥の間を振り返る。
そこには女主人――今や木乃伊ではあるが――を必死で守る、東の海からやって来た真珠の精が、少女の姿で彼の無事を喜んでいるはずだったのだが……。
「真珠、僕の真珠よ」
長椅子の上には振動で崩れ落ちかけた女主人の姿、だがその前に彼女の姿がない。最後に目に映ったときには、健気にも主人の亡骸を守ろうと、長椅子の前で両手を広げて立ち塞がっていたのに。
「食人鬼は去ってしまったよ。どこにいるの?」
カナヤの呼びかけにも、答えはない。青い光に満たされた奥の間は、不気味なほど静かであった。気配というものが感じられないのである。
脅威は去り、崩れ落ちた円蓋屋根の間からのぞく空は、藍色から夜明け前の瑠璃色へと変わりつつあるというのに、彼の心はにわかに騒ぎ出していた。
それは言いようもない不安。師匠カルからの教え、くわえて旅空の下で培った経験や学んだ全てが、なにかを訴えようとしている。
(「エアの足音」は魔除けの音。妖魔を退散させるもの。妖魔……、妖しの魔力を持った精霊は闇の眷属となり……、眷属となれば……なれば……、まさか!)
カナヤは己の不安が正解でないことを祈った。
三弦琵琶を手に、急ぎ奥の間に駆けつける。段差を上がり、一足飛びに長椅子の前にたどり着けば、敷物の上に光沢と色艶を失った小さな玉が落ちているのを見つけた。小指の爪の半分にも満たぬ寸法の、注意していなければ見過ごしてしまいそうなほどの大きさだ。
されど吟遊詩人はそれを見逃すことなく、同時に悲しい事実を覚ってしまった。
この黄色味がかったみすぼらしい小さな玉こそ「真珠の精霊」の末路、七色の光に照り輝いていた希有な真珠の最期なのだと。
カナヤの口から嗚咽のようなものが漏れた。
大神エアは食人鬼を懲らしめただけでなく、彼女の魔力をも奪い、カナヤの前から連れ去ってしまったとみえる。
「そんな……。僕は君を守りたくて『エアの足音』を奏でたというのに」
彼は力なくその場に膝を突いたのであった。
思うに、魔力を奪われた精霊は本来の姿に戻され、刹那にして150年という年月の重さを負わされ、輝きを失い変色してしまったのだろう。
どんなに高価で美しい真珠でも手入れを怠ればすぐに輝きを失う、怠らずとも年月が輝きを奪っていくということは、ご存じか?
照りと呼ばれる内から輝くような光沢こそ、真珠にとって命であることを。
――が、なにゆえこの精霊が魔力を持ち得たのかだとか、なにを糧に生命を長らえていたのかなど、誰も知らぬこと。
人間である吟遊詩人を惑わし意のままに操ろうとしたのが罪だったのか、一時とはいえ滅んだ都市をよみがえらせたのが神の怒りに触れたのか。
悲しいかな、正解を知る者はこの世にいないのだから、全ては推測でしかない。
ただ吟遊詩人の目の前にあるのは光沢を失った珠であり、彼が「真珠」と呼んだ少女は消えてしまったと云う事実のみ。
「そんなのないよ、君は僕と一緒に旅をするんじゃなかったのかい。僕の真珠よ」
吟遊詩人は物言わぬ形姿となってしまった真珠玉を拾い上げようとしたのだが、指が触れた途端、それは沙子となり面影を偲ぶ形さえ無くしてしまう。
「おお、真珠! 君こそ無情だ、僕を置いて消えてしまった!」
カナヤの頬に、一条の泪が流れた。
***
東の空が淡紅色に染まる頃。
女主人と小さな侍女の埋葬を終えた吟遊詩人は、テペラウ遺跡の城壁の上にいた。昨晩、少女と出会った場所だ。
愛らしい鈴の音のような声で話しかけられたのは、遠い昔のような気さえする。あの時と同じようにカナヤは土塊に腰掛け、三弦琵琶を奏でていた。
だたし今朝は陽気な調子の戯れ歌ではなく、死者を弔う葬送の歌。楽園へ旅立つものたちへのはなむけの歌であった。
美しくも哀愁に満ちた旋律が、廃墟の都市に流れていく。
すると薄明に染まった沙丘が、追奏するかのようにかたちを変え始める。風に乗った沙粒が緩やかに移動していく様を、彼は弔歌を歌いながら見つめていた。
うち捨てられた商隊都市は沙に還ろうとしているのかもしれない。
滅亡から、すでに150年の余。かろうじて残る繁栄の跡も、数年もすれば跡形もなく沙に帰すだろう。そして都市の名前さえも、ひとの記憶から消えていく。
奥津城の姫君も、最後まで彼女に付き従った精霊の思いも――。
彼とて旅空の下、果てれば沙に埋もれるのだ。
夜明けの風が、カナヤの髪を揺らす。
陽が昇り始めた。反対の空には薄れ行く月。
その時、吟遊詩人はふと東の国の言い伝えを思い出した。真珠は月のしずく、月の流した涙なのだと。
「 天上を往く銀の舟は 西の空へと消えて往き
想いは また沙に埋もれ行く
嘆けとて 心情を聴くは風ばかり
眼瞼の端を濡らすのは 嘆きと恨みのしずく
我を慰めるのは 乾いた三弦の音色だけ 」
吟遊詩人カナヤはひとり廃墟を後にした。
イラスト:exa様
※ 1ルシュ=約50センチ
「月の夜に吟遊詩人カナヤの身の上におきた不思議な出来事」はこれにて幕となります。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。感謝いたします。
アラビア語で「真珠」のことを、「ルゥルゥ」と言います。かわいい女の子みたいだな――と思ったのが、この物語を考える発端でした。
残念ながら、真珠の精霊はカナヤに本当の名前(――と云っても女主人からいただいた名前でしょうけど)を告げる間もなく消えてしまいましたが。
真珠の成分は主に炭酸カルシウムで、その結晶がタンパク質を接着剤として何枚も重なったものなのだとか。真珠層と云って、層が厚いほど光沢(照り)が増し、上質品となるようです。
でも真珠はダイヤモンドやエメラルドのような鉱物ではなく、琥珀や珊瑚と同じ有機物。だから天然の真珠は形がいびつだとか、光沢もまばらだったりとか、丸玉が良しとされていた時代は宝石として価値のあるものはなかなか採取されなかったんですって。
(現在のように出回るようになったのは、養殖技術が開発されたからですよ)
さらに有機物ですから、経年劣化は避けられない。汗や紫外線、高熱……と取り扱いもデリケートですが、質の悪いものだと真珠層が剥がれてきちゃうこともあるそうです。
――なんてことを本で読んだものですから、150年の年月が隔てた悲恋(!?)話を考えてみたのですが、精霊ちゃんは天然の良質の真珠だから150年くらいじゃ劣化しなかったかも……。まあ、そこは「エアの足音」の圧力がかかったからということで。
形も「月のしずく」だから、ドロップ型とかバロックパールでも良かったかしら?
うちあけ話をひとつ。
このお話、元々のタイトルは「月の夜に……」という出だしの後書きのアレでした。
だから完結記念に、タイトルもちょっとイジってみようかな、なーんて。くっつけちゃいました。
2021/08/14 イラストを追加しました。
『月(と)のお話し企画』を主催してくださった武 頼庵(藤谷 K介)様にも御礼申し上げます。