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「あれは……」
楽屋に戻るために関係者しか入れない廊下を歩いていたら、見知った人物を発見する。
ミヨリの楽屋の前にたたずみながら、なにやら難しい顔をして考え込んでいるようだ。
ミヨリは気配を殺すと、足音を立てずに背後まで忍び寄っていき、ささやきかけるように声をかけた。
「どうしたのかな? ムラサメちゃん」
「うひゃあ!」
綾乃は悲鳴をあげて跳びはねると、慌てて振り返ってくる。
「ミ、ミヨリ! 驚かせるんじゃない!」
「ふつうに声をかけただけだよ?」
帽子とマスクを外して、クスリと微笑みながら綾乃を見あげる。
「背後に忍び寄ってきて声をかけることを、ふつうとは言わないだろ……」
綾乃は悲鳴をあげてしまったことが恥ずかしいようで、両目を細めて抗議してくる。
「この楽屋の前にいたってことは、わたしに何か用かな?」
「あぁ。そうだ」
綾乃は胸に手を当てて動悸を静めると、「よし」とうなづいてからミヨリを見てきた。
「……ミヨリ。おまえはどうするつもりなんだ?」
綾乃が聞きたいのは、もちろん新たに出現したダンジョン『明星の導き』についてだ。探索者なら今は誰もがそのことで頭がいっぱいのはずだ。
昨日の配信で涼子と美鈴が尋ねていたとき、ミヨリは未定だと言っていたが、あれは本心なのだろうか?
綾乃は直接ミヨリの口から真意を聞きたかった。
「っと、すまない。言葉足らずだったな。わたしが聞きたいのは……」
「大丈夫だよ。ムラサメちゃんの言いたいことは、わかっているからね」
綾乃が詳細に尋ねようとしたら、ミヨリはかぶりを振ってきた。こちらの意図が伝わっていたようで綾乃は安堵する。
「それでミヨリ。おまえはどうするつもりなんだ?」
綾乃はさっきよりも声のトーンを低くして、再び問いかける。
尋ねられたミヨリは、深刻な表情で回答する。
「ちゃんと抽選には応募したよ」
「こちらの意図が伝わっていると思ったのは、どうやらわたしの勘違いだったようだ」
そう確信すると、綾乃は呆れた面持ちになって肩を落とした。
「ミヨリ。おまえはなんの話をしているんだ?」
「もちろん、黒野スミレちゃんの限定フィギュアの話だよ。前々から発売されるとは言われていたけど、ついにそのときが来たんだよ。ネットで画像を見たけど、とても精巧な造りで、スミレちゃんの強さと美しさが余すことなく表現されている、素晴らしい出来映えのようだね。でも手に入れられるのは抽選に受かった選ばれし者だけだからね。是が非でもほしいよ」
「わたしがしたいのは、フィギュアの話じゃないから」
まったく会話が噛み合っていなかった。そして相変わらず好きなことになると、めっちゃ早口で喋ってくる。
黒野スミレの限定フィギュアの話題でないと言われたミヨリは、怪訝そうに首をかしげた。
「いまスミレちゃんのフィギュアのこと以外にする話なんてある?」
「あるだろ! もっといろいろ! おまえはアビスに脳を侵食されすぎだ!」
綾乃はため息をこぼすと、今度こそミヨリにきちんと伝わるようにして尋ねる。
「わたしが聞きたいのは、新ダンジョン『明星の導き』についてだ」
「あぁ、そっち」
ミヨリは納得がいったようで、表情から笑みを消してうなづいた。明らかにフィギュアの話をしていたときのほうが活き活きとしていた。
「玲奈さんがシルバーダスクのメンバーを使って『明星の導き』を何度か探索させたが、最下層までは行けなかった。クラン内の精鋭メンバーでも、あの新ダンジョンは攻略できそうにない」
「ふぅん。そういえば最近のムラサメちゃんと玲奈さんは、なんだか忙しそうだったね」
「わたしもシルバーダスクのメンバーと共に、階層が追加された他のダンジョンに出向いていたからな。玲奈さんも国内にある複数のダンジョンで異変が起きたから、クランメンバーに命じてそれらを探索させているので多忙なんだ」
ダンジョンに起きた大規模な異変によって、国内にいる探索者たちの活気は盛んになっている。その中心にいるのは、まちがいなくミヨリだ。異変の原因はミヨリが『常闇の迷宮』にいる魔王を倒したからだと、大半の探索者はそのように推察している。
だというのに、当人はあまり気にしていないどころか、推しキャラのフィギュアのほうを重要視していた。
「昨日の配信でも言っていたように、新しいダンジョンについては、まだどうするかは決めていないかな」
「そうなのか……」
ミヨリの返答を聞くと、綾乃はこわばらせていた身体から力を抜いていった。
もしかしたら、ミヨリが近いうちに新ダンジョンに挑むのではないかという期待があった。ミヨリなら、まだ誰も攻略できていない『明星の導き』を最下層まで踏破できるかもしれないと。
望んでいたものとは違う答えに、綾乃は拍子抜けする。
「それから、探索者組合がシルバーダスクに頼んでいたミヨリへの監視はゆるまるようだ。ギルドも下手に刺激しないほうがいい相手だと判断したらしい。もっとも、ミヨリはあまり気にしていないようだがな」
そのギルドは、複数のダンジョンで階層が追加されたことや、新モンスターや新ボスが出現したことで、状況の把握に忙殺されている。ミヨリのせいで、多方面に影響が出ていた。
「そうなんだね」
綾乃が言っていたようにあまり気にしていないことだったので、ミヨリはおざなりに相槌を打った。
「ダンジョンに異変が起きて、いろいろ気がかりなのは仕方ないけど、それよりも今はこのあとのことのほうが大事だよ」
「まぁ、そうだな」
ゲストとして呼ばれたからには、全力でそれに応えないといけない。綾乃もそのことは承知しているようで、真面目な顔で肯定してくれた。
それがうれしくて、ミヨリはニコリと微笑むと、力のこもった眼差しで綾乃を見つめる。
「ムラサメちゃん。わたしと戦う覚悟はできているかな?」
「…………」
ダンジョンでモンスターと戦うときよりも真剣なのは、なんでなんだ?
綾乃はグッと喉に力をこめて、その疑問を飲み込んだ。




