第133話 生涯最後の教え子
重力の一切を奪われるように、二人の身体が空へと投げ出される。
瞬間――音が、消える感覚。
眼下には、崩壊していく闘技場の残骸。
砕けた石材が、雲の海を割って、下へ、下へと吸い込まれていく。
そして、雲を裂く風の中。
ふたりの剣士が、無言のまま宙を舞っていた。
カナリアは、脱力しきった体で――
落下に抗うこともなく、ただ空に身を預けていた。
その瞳に浮かぶのは、もはや焦りでも恐怖でもない。
ただ、静かな諦めだった。
(先生の言うとおり、自分でバランスをとることさえできないや)
ぽつりと、唇が動く。
「……こうなることは、わかってたはずなのに」
成す術なく落下していくカナリアの体。
運よく空中庭園の地面に落下できたとしても――刀神である彼女の肉体でさえ、その衝撃には耐えきれない。
(ごめんね、ノア……誰にも負けないって、おじいちゃんと約束したのに。守るって、決めたのに……それなのに、私は先生に勝てなかった)
全てを絞り尽くし、意識さえも沈みかけていたカナリアの身体が――ふわりと、柔らかな“何か”に包まれた。
柔らかい風のうねり。
その中心にいたのは、片腕で彼女の身体をしっかりと抱き支えるフウゲツだった。
カナリアは、はっとしたように目を見開き、顔を上げた。
陽光が射し込む高空で、
彼は風を纏うようにして宙を舞い、ゆるやかに落下を制御していた。
風が、優しく吹き抜ける。
「すごいじゃろ! ワシぐらいの風の使い手になると空もひとっとびよ! 空の散歩は気持ちいいだろ! だから……その……泣くな」
フウゲツの腕の中で抱きかかえられたカナリアの瞳には、こぼれんばかりの涙が浮かんでいた。
空の冷たさでも、痛みでもない。
胸の奥からじわりとあふれてきたものだった。
そして、絞り出すように、彼女は呟く。
「……なんとなく、感じてはいました。弟が……ノアが魔力切れになった時、私ほど酷くはなかった。……だから、きっと――」
言葉が詰まる。
それでも、震える唇から続きが漏れた。
「……きっと私の能力は、もっと“何か”を削ってるんじゃないかって……魔力だけじゃなくて……命とか、存在そのものとか大事なものを……」
しばしの沈黙が、風に流されて消えた。
「……でも、私はノアみたいに、魔法も、祝詞も、属性さえも、何もなかった。イクリスに生まれて、ようやく“掴めた”ものが、この能力だったんです……私にはこれしかなかった。……私だけの、たった一つの“存在価値”だったから……」
大粒の涙が、一筋、空へ落ちていく。
肩を震わせ、カナリアは嗚咽混じりに泣きじゃくった。
「……私の、唯一の誇りだったの……だから……だからっ……」
声にならない言葉が、涙と一緒にあふれ出す。
(もうだめ……ためこんでた全部が、爆発して……もう、言葉にならないや……)
うっ、うっ……と、嗚咽が喉を震わせ、
その身体ごとフウゲツは、そっと抱き寄せた。
「……こっちを見ろ、カナリア」
その声は、まるで――
これまで人生を共に歩んできた、家族のような温かさを帯びていた。
「もう大丈夫じゃ。安心せんかい……そのために、このワシが! はるばる来たんじゃろうて。しっかり修行すれば、何も恐れることなく――その力を存分に振るえるようになる。ワシが、そうさせてみせる。約束するわい」
風月は自信に満ち溢れた口調で続ける。
「勇者候補だかなんだか知らんが――お前は、まだ“たった八つ”の子供じゃろ。子供は子供らしく、弟子は弟子らしく。……大人たちと、師匠を頼ればええんじゃ」
その一言に、カナリアは――ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
あたたかな風に包まれたような安心感が、胸の奥まで満ちていく。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
魔力切れのせいだと、頭のどこかではわかっていた。
けれど、それ以上に――もう、戦わなくていいという安堵が大きい。
ぼやけていく視界の中で、フウゲツの優しい表情がかすかに映る。
(ああ……そうか。やっと、わかった)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
(……風月先生。死んだギャンバスじいちゃんに、どことなく似てたんだ。だから……親しみやすかったんだね……)
「……先生……いや、師匠……これからよろ……しく……おね……が……」
その言葉を最後に、カナリアのまぶたは静かに閉じられた。
「……眠ったか」
フウゲツは、そっとカナリアを腕に抱きながら、ふうっと息をついた。
そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
「今まで、多くの弟子は取ってはきたが――初稽古で、ワシの肋骨と愛刀をへし折った奴なんぞ……お主が初めてじゃわい!」
陽光の下、フウゲツは思わず「カッカッカ」と笑を漏らした。
けれどその笑みには、怒りでも呆れでもない。
ただ、どこか――誇らしげな色があった。
(……よし、決めたぞ。儂も、齢だが、老いぼれて衰える前に、この娘に全てを教える。この子はワシの、最後の弟子じゃ)
これまで、すべてを背負い、弟ノアを守るために走ってきたカナリアが、ほんの少しのあいだだけ――
“守られる側”に戻ることを、彼女は自分自身に許したのだった。
そしてこの日から、草叢風月はカナリアの、正式な“師匠”となった。




