89 先帝が愛した華
「そなたは敏い姑娘だ。だが、口は禍の門という。語りすぎぬことだ」
あからさまな警告だったが、紫蓮は微笑を絶やさない。
「ご懸念には及びません。死は盟友です」
「若いな。死より惨いものを知らぬとは」
如珂は唇を弧にする。
「実に母親そっくりな姑娘なこと……」
母親、か。錠をかけていた箱から、積年の想いがあふれだしそうになって、紫蓮が想わず微笑を凍てつかせた。
珀 如珂は先帝の寵愛を一身に享けていた妃だ。紫蓮の母親がどれだけ愛しても、こがれても、先帝は一度たりとも母親のもとに渡ることはなかったというのに。
母親の哀しい嫉妬が、紫蓮の胸を借りて寒々しい嵐を吹かせる。
「妾は妬ましくてならなかった」
如珂の唇からこぼれた言葉に紫蓮は耳を疑った。
「卑賎の身でありながら、ただひとり、先帝陛下に愛されていた彼女のことが」
「違います、先帝陛下のご寵愛は」
「妾か」
如珂はため息でもつくかのように笑った。だがすぐに真剣な眼差しになる。
「そなた、如何なるものであろうと、等しく葬るといったな」
「左様ですが」
「それが親のかたきでもか」
紫蓮は呼吸をつまらせる。
「なにを仰っているのか、私には理解がおよびませんが」
「ならば、よい」
如珂は茶杯の底を乾かして、水亭を後にする。
いったい、どういうつもりなのか、最後まで如珂がなにを考えているのかはわからなかった。
老宰相が慌てて如珂についていこうとする。だが、なにをおもったのか、頭を低くして紫蓮のもとに近寄ってきた。
「綏 紫蓮――いえ、紫蓮皇姫というべきでしょうか」
産まれついてから一度たりとも姫と呼ばれたことがなかった紫蓮は戸惑い、眉根を寄せた。
「御立派になられましたな。この唐 圭褐、大変嬉しゅうございます」
「どこかで御会いしたことがありましたか」
「いえ、御目に掛かるのは御初になります。ですが、先帝陛下がいつもあなたさまの御成長を気に掛けておられました」
先帝という言葉に紫蓮の唇が微かにひきつる。そんなはずはない。先帝が廃姫である紫蓮のことを気に掛けていたはずが。
「私は先帝陛下の腹心として御側につかえておりましたが、あなたさまの話を聴かぬ日はございませんでした。冬には笄年をお迎えになられるとのこと、先帝陛下がおられたら、さぞやお喜びになられたことでしょう」
唐 圭褐は袖で涙を拭った。
絶句している紫蓮をおいて、圭褐は「お待ちくだされ」と如珂の後を追いかけていく。
紫蓮は先帝――父親には、命あるうちに逢ったことがない。
酷い熱をだして倒れても逢いにこない男を、愛し続ける母親のかわりに紫蓮は父親を怨んできた。だが、ほんとうは父親のことはなにひとつ、知らないのだ。
逢ったばかりのとき、絳から聴いたことを想いだす。
先帝が、あなたがたをわすれたことはありませんでしたよ――
さめてしまった茶を飲む。残った茶は、喉を焼くほどに苦かった。
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紫蓮は果たしてこの後宮の真実をあばけるのか。先帝が愛していたのは……。まもなく解明されます。こうご期待ください。





