62 死化粧妃たる母親の死
お待たせいたしました。三部開幕です。紫蓮の回想からはじまります。
人は産まれたその時から、柩のなかにいる。
幸も不幸も、喜びも、哀しみも、柩に投げこまれる時季の花に過ぎない。柩の蓋がいつ閉ざされるかは誰にもわからず。愛だけを遺して、あらゆるものは埋葬される。
命あるかぎり、かならず、いつか死にいたる。
ゆえに死は、穢れではない。
紫蓮は物心ついたときから、母親にそう教えられてきた。
斉の宮廷には死化粧師の一族が連綿とつかえている。都にも死化粧師と呼ばれる職はあるが、綏家は先祖から受けついだ特殊な技巧を持っており、巷のそれとは格が違った。宮廷に庇護されているが、死の穢れをひき受けるため、身分は低い。
死化粧の相承は五歳から始まる。死化粧師の一族が総じて短命であるためだ。以後、紫蓮が死に触れなかった日は、ない。
傷つき、崩れかけた屍たちの髪を梳いて、死斑に侵された肌を浄め、唇に椿脂を施して――紫蓮にとって死とは親しむべきものだった。
だが、その死が、愛するひとにも降りかかるものだということを、幼い彼女はまだ理解できていなかった。
時をさかのぼること、五年。紫蓮がまだ九歳の時だ。
いつもと変わらず、他愛ない言葉をかわして眠りについた翌朝だった。
晩夏だというのに暑く、朝から蟬が騒ぎ続けていた。いまになって想いかえせば、あの朝の蟬は哭女の声に酷く似ていた。
母親が起きてこず、臥房まで声をかけにいった紫蓮はそこで、とても現実とは想えないものを眼にした。
母親が、死んでいた。
あわを吹き、臥榻に横たえた身を強張らせて、胸もとを強く強く握り締めていた。酷く掻き乱された敷布の有様から、息絶えるまでそうとうに苦しんだことがわかる。
だが、それだけではなかった。
絶叫して、臥榻にしがみついた紫蓮が息をのんだ。
顔が、崩れている――
唇はいびつにゆがんで、左端が垂れさがり、右端はでたらめに縫いあげられたようにめくれていた。割れそうなほどに喰いしばられた歯が剥きだしになっている。
ひきつれた瞼から剥きだしになった眼に蝶がとまっていた。
最後に吹きこぼれた涙を啜っているのか。
腹がよじれるほどに嗤っているような。あるいは泣き崩れているような。破綻した表情には、紫蓮の愛した母親の人格はひとかけらたりとも遺ってはいなかった。
「母、様」
紫蓮は絶望にうちひしがれた。
先帝だ。変死した先帝の魂魄が憑依したのだとおもった。
あるいは、祟りか。
いや、そんなはずが、ない。
これは酷い夢だ。
夢なのだ。
「う……うぅ、あ」
紫蓮は呻きながら頭を抱えて、いつまでもそこから動かなかった。いや、動けなかった。
黄昏になって日が落ち、また朝がきて。
時が経つほどに母親の屍は崩れていった。
死斑が拡がり、腹が膨れあがって――暗いうちはわからない。だが、再びに朝をむかえたとき、臥房に日が差した。視線をあげた紫蓮は想わず、ひっと悲鳴をあげた。
母親の肌が緑になっていたのだ。
これでは、だめだ。母親を葬らなければ。
葬りかたは母親から教わっている。だが、思考がもつれて、どんな順に施術を進めればいいのか、想いだすことができなかった。
とにかく母親の瞼をおろそうとする。
「なんで」
だが、どうやってもさがらない。時が経ちすぎたせいで瞼の皮膚が乾燥して縮んでしまい、眼がとじないのだ。
紫蓮は散乱しながら瞼を引っ張っていたが、やがて諦めた。
腐敗をとめるのがさきだ。腐ると、崩れる。母親から教わったことを想いだして、紫蓮は震える指で医刀を握り締めた。
「……できないよ」
最愛の母親の腹を割くことが、紫蓮にはどうしてもできなかった。
息をつめ、振りおろそうとするのだが、身が竦んでしまい動けなかった。まして、腹のなかを掻きまわして、臓を取りだすなんて。
できるはずがない――項垂れた、その時だ。
膨張していた母親の腹が、破裂した。噴きだしたものを頭からかぶって、紫蓮は理解した。
綺麗に葬るには、遅すぎたのだと。
絶望していたところに宦官が踏みこんできた。
宦官たちは母親の屍をみるなり、口々に騒いで、嫌悪を剥きだしにする。嵐のような喧騒のなかで、紫蓮だけがぽつんと取り残されていた。人の声が言葉を持たない蟬の喧騒と一緒に聴こえる。
だが、一言だけ。
「けがらわしい」
唾棄された声が、紫蓮の鼓膜に刺さる。
ごみでも処分するように宦官たちは息絶えた母親を運びだした。頭に触れたくないのか、乱暴に髪をつかみ、荷車からずれ落ちた脚を蹴りあげて積む。
「いやだ、やめて」
紫蓮は声をからして、追いかける。
「きれいにするから、母様をどうかっ、そんなふうに扱わないで――」
だが、紫蓮の哀訴は虚しく蹴りとばされ、屍は処理された。
紫蓮は、母親の骸がどこに埋葬されたのか、知らない。風葬地に投げこまれたのか、都の端にでも埋められたのか。
綺麗に納棺することができていれば。
母親は最後まで、人らしく扱われたのではないか。けがらわしいなどと侮蔑されずに済んだのではないか。
どれだけ悔やんでも、悔やみきれなかった。
後悔が遺るかぎり、紫蓮のなかでは母親の死が終わらない。
紫蓮は、霊魂というものを信じていない。なぜならば、亡霊になるのはいつだって遺されたものだからだ。
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