58 死化粧妃の姑娘
回想です。
その晩のことだ。
昔のことを想いだしたせいか、紫蓮は夢をみた。
紫蓮がまだ五歳になったばかりで、男として育てられていたときの夢だ。
母親と一緒に彼女は、後宮の橋を渡っていた。背後から侮蔑の声が追いかけてくる。
「死の穢れを振りまいて」
「皇帝陛下に愛されているつもりなの」
紫蓮はぎゅっと身を縮めかけた。だが、やましいことがないのならば胸を張っていなさいと母親から教えられた言葉を想いだして、背筋を伸ばす。だが、何処からともなくとんできた礫が、紫蓮の頭にあたった。
紫蓮は涙ぐみ、泣きだしそうになった。
だが、そのとき、母親は紫蓮を振りむかずにいった。
「泣いてはだめよ、おまえは男の子なんだから」
紫蓮は唇をかみ締めて、涙をとめた。
橋を渡り終えてから、母親は振りかえる。
「偉かったわね」
孝服を想わせる白い襦裙に身をつつみ、青い刺繍の外掛を羽織った母親はやわらかな微笑を湛え、紫蓮を抱き締めてくれる。髪に飾られた玻璃のかんざしがきゃらきゃらと音を奏でた。
「ああ、おまえは、ほんとうに綺麗な眼をしているのね。皇帝陛下に瓜ふたつだわ」
微かに潤んだ紫蓮の眼をみつめ、母親が語りかける。
紫の眼とは皇族の正統な血脈を証明するものだ。母親は姑娘である紫蓮に男物の服をまとわせて、男のように喋らせた。
皇姫ではなく皇子だったらとおもっていたのか。逢いにこない最愛の男のおもかげを重ねていたのか。紫蓮にはわからない。
「眼というものは呼吸がとまって魂魄が剥がれたその時から、濁っていくものなのよ。意志は胸でも頭でもなく、眼に宿る――」
母親はいかなる経書にも書かれていない、みずからだけの思想を持った女だった。医薬などの知識も備えており、非常に賢かったのだと紫蓮はおもう。もっとも低級の妃妾であったためにそうした叡智が振るわれることはなかったが、皇后になっていれば、その才能がいかんなく発揮されたはずだ。
そんな母親のことを、紫蓮は敬愛していた。
「だから、生きながらに眼を濁らせてはだめよ。みずからを哀れんで、こぼす涙はいつかかならず、おまえの眼を穢すから」
ひとつだけ、こぼれてしまった涙を母親の指がさらっていく。
これは死化粧を施す指だ。
幼心ながら、紫蓮はせかいで一等美しいものは母親の指だと想っていた。
「その眼を護りなさい。おまえは、皇帝陛下の御子なのだから」
母親を愛していたからこそ、そう繰りかえされるたびに紫蓮は胸が締めつけられた。
「わかっております。でも、ぼくはかあさまの――」
姑娘だと、訴えかけた言葉が喉につまる。
幼かったせいもあってか、紫蓮は男として育てられることに抵抗はなかった。だが、ときどき、想うことがあった。逢ったこともない皇帝陛下の御子ではなく、誇り高き死化粧妃の姑娘では、いけないのか。
綏 紫蓮、では母親をなぐさめることはできないのか。
認めては、もらえないのか。
「かあさま、ぼくは」
ふせめがちに覗った母親の顔が、崩れる。
悲鳴をあげる暇もなかった。瞼がひきつれ、唇がねじくれて、あとかたもなく壊れていく。
夢が、破れる。
お読みいただき、ありがとうございます。
ちょっとずつ紫蓮の経緯も明かされていきます。引き続き、よろしくお願いいたします。





