第56話 新たな客人は、お忍びの王女様
「あの子を、この島で療養させてもらえないかしら」
夜の波音だけが響く静寂の中、イザベラ――ベルのその言葉には、天才外科医としての矜持を投げ打ってでもすがりつきたいという、切実な響きがあった。
直樹は手元のハーブティーのカップをゆっくりとテーブルに置き、彼女の疲弊しきった深い色の瞳を静かに見つめ返した。この島は、彼女たちにとって外部からの干渉を完全に断ち切った聖域だ。そこに部外者を入れることが何を意味するのか、ベル自身が一番よく分かっているはずだった。それでもなお、彼女は頭を下げようとしている。
「……到着はいつになる」
直樹の短く、一切の咎めを含まない問いかけに、ベルはハッとして顔を上げた。
「受け入れて、くれるの……?」
「あんたがそこまで思い詰めるほどの患者なんだろう。島の東側に、新しく組み上げたばかりのコテージがある。日当たりも風通しもいい。そこを使えばいい」
ベルは両手で顔を覆い、何度も小さく頷いた。その肩が微かに震えているのを、直樹は黙って見守っていた。
★★★★★★★★★★★
数日後。初夏の陽射しがエメラルドグリーンの海面を照らす現実の無人島に、重低音を響かせてベルの財団の医療用ヘリが着陸した。
巻き上がる砂埃が収まった後、ハッチからゆっくりと降りてきたのは、車椅子に乗った一人の少女だった。
ヨーロッパの小国の王女、クラウディア。16歳。
お忍びでの来島とはいえ、彼女が纏う仕立ての良い柔らかなカシミアのケープや、細い手首を覗かせるシンプルな綿のドレスからは、育ちの良さが隠しきれずに滲み出ている。
少し離れた木陰から、直樹は彼女の姿を静かに観察していた。
車椅子の背もたれに力なく身体を預け、まるで自分の存在を消そうとするかのように小さく縮こまっている。透き通るような金糸の髪が潮風に揺れ、その隙間から覗く横顔は、本来なら誰もが息を呑むほどに美しい造作をしていた。
だが、その肌は抜けるように青白く、陽光の下でも血の気が感じられない。細い鎖骨が浮き出た首元は痛々しく、窪んだ眼窩の奥にある青い瞳は、周囲のすべてを拒絶するように怯え、深い虚無を宿していた。
直樹とふいに視線が交差した瞬間、彼女はビクッと肩を震わせ、ケープの端を握る青白い指先にぎゅっと力を込めた。その指先は痛々しいほどに細く、爪の血色すら失われている。
王女という地位がもたらす無数の悪意、そしていつ自分の食事に盛られるか分からない毒への怯え。それが彼女を極限まで追い詰め、食べるという本能そのものを壊してしまったのだろう。
直樹の背後で、ベルが痛ましそうに、そして祈るような目で彼女を見つめていた。
コテージのベッドに運ばれたクラウディアは、点滴を受けながらも、出された柔らかいスープを一口も口にしようとしなかった。匂いを嗅ぐだけで顔を背け、微かに吐き気を催すような仕草を見せる。
「悪いわね、ナオ。せっかく作ってくれたのに……」
コテージの外に出てきたベルが、ひどく沈んだ声で謝罪した。
「気にする必要はない。病状は聞いている」
直樹は静かに首を振り、海風を感じながら思考を巡らせた。
食べ物を恐怖の対象として見ている人間に、どれだけ繊細で胃に優しい料理を出しても、それは「食べなければならない義務」というプレッシャーを与えるだけだ。彼女の心は今、極度に張り詰めた糸のような状態にある。
ならば、アプローチを変えるしかない。
無理に食べさせるのではなく、人間の根源的な本能を外側から揺さぶる。圧倒的な香りと、周囲の人間が心底美味しそうに食事を楽しむ「空間」の熱量。それを共有させることで、彼女自身の身体に、失われていた「食べたい」という欲求を無自覚に思い出させる。
直樹は振り返り、野外キッチンへと向かった。
準備していたのは、インターネットの特別配送ルートを使い、本土から取り寄せた大量の食材だった。
主役は、北海道からチルド状態で空輸された、最高級のサフォーク種のラム肉。一度も冷凍されていないその肉は、驚くほど瑞々しく鮮やかな深紅をしており、キメ細かくシルクのように滑らかな純白の脂が美しく入り込んでいる。
直樹は使い込まれた包丁を手に取り、肉の繊維を見極めながら、食べやすい厚さに切り分けていく。ラム肉は特有の匂いがあるが、鮮度の良いものを正しく処理すれば、それは抗いがたい「芳香」に変わる。
続いて野菜の下準備にかかる。モヤシは面倒でも一本一本ヒゲ根を丁寧に取り除く。この一手間が、口に入れた時の食感と水っぽさを劇的に変えるのだ。玉ねぎは甘みと柔らかさを両立させるため、あえて繊維を断ち切るように少し厚めにスライスし、加熱した際の甘みを最大限に引き出す。ニンジンは彩りと火の通りを計算して薄めの短冊切りに、ピーマンは苦味の元になる細胞を壊さないよう、繊維に沿って縦に切り揃えた。
そして、今回の味の要となる特製ダレの作成に取り掛かる。
直樹は小鍋に、上質な赤ワインをたっぷりと注いで火にかけた。アルコールが飛び、鍋の縁に小さな気泡が立ち始める。そのまま火加減を調整し、ワインが半量になるまでじっくりと煮詰めていく。赤ワインの持つ水分が飛び、フルーティーな香りと深いコクだけが鍋の底に凝縮されていく。
そこに、熟成された醤油とみりん、和三盆を加え、すりおろした玉ねぎとリンゴ、少量のニンニクと生姜を投入する。フツフツととろみがつくまで火を入れると、赤ワインの芳醇な香りと醤油の香ばしさが渾然一体となり、暴力的なまでに食欲を刺激するソースが完成した。赤ワインのタンニンがラム肉の脂をすっきりとさせ、果実味が肉の風味を極限まで引き立てる、プロ顔負けの計算し尽くされたソースだ。
夕暮れ時。
海風が心地よく吹き抜けるウッドデッキの中央に、直樹は重厚な鉄のジンギスカン鍋をセットし、強い火にかけた。
煙の匂いに誘われるように、作業を終えたシルフィやエミ、そしてベルがデッキに集まってくる。直樹はクラウディアの乗る車椅子を、熱気は直接当たらないが、香りがしっかりと届く風下のテラス席へと静かに移動させていた。
「いただきます」というヒロインたちの弾むような声と共に、直樹は十分に熱した鉄板の頂点に、ラムの脂を乗せた。
チリチリと脂が溶け出し、鉄板の溝を伝って流れ落ちていく。その脂を受け止めるように、鍋の周囲にモヤシ、玉ねぎ、ニンジン、ピーマンをたっぷりと敷き詰めた。
そして、頂点の開いたスペースに、切り分けたばかりの深紅のラム肉を並べる。
パチパチと弾ける音を伴いながら、ラムの極上の脂がジンギスカン鍋の傾斜を流れ落ちていく。煙と共に香ばしい薫りが夕闇の空へと立ち上り、周囲の野菜たちをジュージューと小気味よく焼き上げていった。
ラム肉特有の野性味のある香ばしい匂いが、周囲の空気を一気に支配する。焼けた肉の表面から滲み出た極上の肉汁が、斜面を滑り落ちて周囲の野菜に染み込んでいく。
「うわあ……! すごくいい匂い!」
エミが待ちきれない様子で真っ白な尻尾を揺らし、焼き上がった肉を小皿に取り、赤ワインの特製ダレにたっぷりと潜らせて口に運ぶ。
「んんっ……! なにこれ、お肉すっごく柔らかい! ソースの深い甘みとワインの香りがお肉に絡んで……たまらないわ!」
ベルも豪快に肉と野菜を頬張り、大きく息を吐き出した。
「最高ね! ラムの脂を吸った野菜がまた信じられないくらい甘いわ。……ナオ、このソース、本当にあんたが作ったの? その辺の三ツ星レストランなんかお呼びじゃないくらいの奥深さだぜ」
シルフィも上品に箸を進めながら、その完璧な火入れと味のバランスに感嘆の溜息を漏らしている。
誰もが笑顔で、心底美味しそうに食事の時間を楽しんでいる。響くのは、肉と野菜が香ばしく焼ける心地よい音と、屈託のない笑い声、そして波の音だけだ。
少し離れた席に座るクラウディアは、膝の上に置いた両手を固く握りしめていた。
食事の場にいること自体が、彼女にとっては苦痛だったはずだ。しかし、風に乗って運ばれてくる赤ワインと醤油の焦げる甘辛い匂い、そして肉が焼けるリズミカルな音が、彼女の意識の奥底にある何かを静かに叩いていた。
直樹は、そんな彼女のわずかな変化を絶対に見逃さなかった。
彼は手元の小皿に、ラムの旨味をたっぷりと吸ってしんなりとした玉ねぎとモヤシ、そして一番柔らかい部位の肉を小さく切り分けて乗せた。そこに、赤ワインの特製ダレをほんの少しだけ回しかける。
直樹は静かに歩み寄り、クラウディアの前の小さなテーブルにその小皿とフォークを置いた。
クラウディアの肩がビクッと跳ね、怯えたように直樹を見上げる。
直樹は彼女の目を見て、低く、穏やかな声で言った。
「無理に食べなくていい。ただ、ここの玉ねぎは驚くほど甘いぞ。海風に当たりながら、肉の焼ける音でも聞いてろ。そう悪くない時間の潰し方だ」
それ以上は何も言わず、直樹はすぐに鉄板の前へと戻っていった。プレッシャーを与えないための、完璧な距離感だった。
クラウディアは、目の前に置かれた小皿を見つめた。
立ち上る湯気からは、一切の嫌な匂いがしない。ただ純粋に、心が解けるようなフルーティーな甘さと、香ばしい匂いだけが彼女の鼻腔をくすぐり続ける。
毒の心配も、誰かの評価も気にしなくていい、穏やかな空間。
(……ほんの少しだけ、匂いを嗅ぐだけでも……)
そう思った瞬間、彼女の胃の腑が、きゅっと、かすかに音を立てて鳴った。
それは、彼女自身がもう何ヶ月も忘れていた、身体が食べ物を求める本能的な『欲求』の音だった。
クラウディアは驚いたように目を見開き、自分の腹部にそっと手を当てた。食べることが恐怖でしかなかった彼女の青い瞳に、戸惑いと、ほんの小さな希望の光が宿る。
彼女はフォークを握る手を微かに震わせながら、じっと小皿に載ったお肉と玉ねぎを見つめていた。
その様子を横目で確認したベルが、感極まったように口元を手で覆う。
直樹は彼女たちの邪魔をしないよう、ただ静かに、鉄板の上の肉を端へと避けた。そして、この少女の冷え切った胃に、次はどんな温かいものを流し込んでやろうかと、早くも次の献立を静かに組み立て始めていた。
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