第55話 天才外科医の憂鬱と、深夜のアヒージョ
初夏の陽射しが、古いアーケードの隙間から商店街のアスファルトにまばらな影を落としている。
休日の昼下がり。活気ある下町の商店街は、地元の中高生や買い物袋を提げた主婦、それに観光客が入り乱れ、肩が触れ合いそうなほどのごった返しぶりを見せていた。
杉本直樹は、人波の端の少しだけ影になった場所に立ち、静かに時計を見た。
待ち合わせの時刻のちょうど五分前。
視界の端で、黒塗りの重厚な高級車が、周囲の空気を圧するようにして少し離れた路地の端に静かに停まるのが見えた。運転席から素早く降りた黒服の男が後部座席のドアを開ける。
そこから、周囲の風景から完全に浮いている、純白のサマードレスを着た、すらりと背が高く抜群のスタイルを誇る女性が降りてきた。
彼女の少し後ろには、目立たないように私服を着た数名の屈強な男たちが、一般客を威圧しないよう細心の注意を払いながらも、一定の距離を保って散開している。
「ナオっ!」
つばの広い麦わら帽子を被り、少し大きめのサングラスをかけた桜井元子が、直樹を見つけるなり小走りで駆け寄ってきた。すれ違う人々が、その圧倒的なプロポーションと隠しきれない華やかなオーラに思わず振り返るが、彼女は全く気にする素振りを見せない。
日本の政財界の頂点に君臨する『桜井財閥』の現当主。
だが今の彼女は、本邸の厳格なしがらみをすべて脱ぎ捨て、お気に入りの私服に身を包んだ、どこからどう見ても、ただの可憐な20歳の女性だった。
「遅れてない? 待った?」
「いや、今来たところだ」
直樹が答えると、元子はホッと息を吐き、無邪気な笑顔を向けた。
「よかった! モモね、こういう商店街を歩いてみるの、夢だったの!」
「そうか。人が多いし、道も狭い。はぐれないようにな」
「うんっ!」
元子はごく自然な動作で、直樹の右腕に自分の腕をしっかりと絡ませ、嬉しそうに密着してきた。
少し離れた場所で、私服のSPたちがビクッと身をこわばらせ、慌ててインカムで何やら通信を交わす気配がしたが、直樹は気にも留めずに歩き出した。
焼き鳥屋から漂う甘辛いタレの煙、八百屋の威勢の良い呼び込み、コロッケを立ち食いしながら笑い合う学生たち。
元子にとって、そのすべてが新鮮で刺激的な劇薬だった。普段は分厚い防弾ガラス越しにしか見ることのできない、色と音に溢れた「普通の日常」が、今、彼女の肌に直接触れているのだ。
「ナオ、あれ! すごくいい匂いがする!」
元子が弾んだ声で指差したのは、店先に二十人ほどの行列ができている老舗の精肉店だった。
直樹は元子を日陰の邪魔にならない場所に立たせると、自ら列に並び、名物の揚げたてメンチカツを二つ買った。茶色い紙袋を受け取った瞬間から、ラードの甘く香ばしい匂いが立ち上ってくる。
「熱いから気をつけろよ。少しずつ噛め」
「うん……っ、はふっ!」
元子は両手で紙袋を持ち、小さな口でメンチカツの端に齧り付いた。途端に、サングラスの奥の目が大きく丸くなる。
サクッとした厚めの衣の食感の直後、粗挽きの豚肉とざく切りの玉ねぎの甘みが、火傷しそうなほど熱々の肉汁となって口いっぱいに溢れ出したのだ。
「おいひい……! なにこれ、すごくジューシー! お肉の味が濃い!」
「服にこぼすなよ。ほら」
直樹はポケットからウェットティッシュを取り出し、元子の口の端についた衣の欠片をそっと拭ってやった。
最高級の黒毛和牛のステーキでも、三ツ星レストランのフレンチでもない。ただの商店街のメンチカツ。だが、直樹の腕に掴まり、雑踏のノイズに包まれながら肩を並べて食べるそのジャンクな味は、元子からこれ以上ないほどの満面の笑みを引き出していた。
「……ナオといると、本当に、モモがただの『モモ』になれる気がする」
メンチカツを食べ終え、商店街の喧騒から少し離れた、人通りの少ない公園のベンチに腰を下ろした時だった。元子が、足元の落ち葉を見つめながらぽつりとこぼした。
麦わら帽子の下、サングラスを外した彼女の瞳には、若い女性が一人で背負うにはあまりにも重すぎる、現実の莫大なプレッシャーの影が微かに落ちていた。
「帰ったら、また『御前』に戻らないといけない。大人たちの都合と、お金の計算ばっかりの場所に……。だから、もう少しだけ、このままでいさせて」
元子は直樹の肩に、こてりと頭を乗せた。
直樹は何も言わず、ただ彼女の小さな肩が冷えないように、自分が日差しを遮るように少しだけ姿勢を変えた。
過剰な同情も、無責任な慰めもいらない。ただ、彼女が鎧を脱ぎ捨てて「普通の女の子」として息継ぎができる場所であればいい。直樹は静かに、木漏れ日が揺れる公園の地面を見つめていた。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜。
現実の無人島は、静寂な波の音と、海から吹き上げる少し冷たい夜風に包まれていた。
直樹は、完成したばかりの広大なウッドデッキに一人で腰を下ろし、ランタンの柔らかな光の下で、手持ちのサバイバルナイフの手入れをしていた。
砥石の上を滑る金属の冷たい摩擦音が、夜の空気に吸い込まれていく。
ふと、遠くの暗い空から、規則的な重低音が響いてきた。
音は徐々に大きくなり、やがて強烈なダウンウォッシュが周囲の木々を激しく揺らし始めた。ベルの医療財団が所有する最新鋭の双発ヘリコプターが、島の平地へ向けて正確なホバリングを見せ、ゆっくりと着陸する。
ローターの回転が完全に止まり、暗闇の中から足を引きずるようにして歩み寄ってくる人影があった。
「……こんな夜更けに、珍しいな」
直樹が砥石から顔を上げると、そこに立っていたのはイザベラだった。
いつものような堂々とした女王のオーラはない。メイクは最低限で、普段は強い意志を宿している瞳が、重い疲労で微かに曇っていた。機能的なスニーカーとパンツスタイルだったが、肩は落ち、歩くのすら億劫そうに見える。
「……悪いわね、ナオ。こんな夜更けに押しかけちゃってさ。……でも、どうしても今すぐ、あんたの顔が見たくなっちゃってね」
無理に作ったようなフランクなタメ口の中には、隠しきれない疲弊と、直樹への無防備な甘えが滲んでいた。
「構わない。座れ」
直樹はナイフを丁寧に布で拭って鞘に収め、傍らのチェアを勧めた。
ベルはまるで糸が切れた操り人形のように力なく腰を下ろすと、両手で顔を覆い、深く、ひどく重い溜息を吐き出した。
「どうした。オペで何かあったのか」
「……」
ベルは答えず、ただ手のひらに顔を埋めたまま、小さく首を横に振った。
その様子を見て、直樹はそれ以上問い詰めることはしなかった。ただ無言で立ち上がり、野外キッチンのコンロに火を入れる。
かつて限界まで自分をすり減らしたことのある直樹には、今の彼女に必要なのが言葉ではないことが、痛いほどよく分かった。アドバイスや慰めは、疲れ切った脳には単なるノイズにしかならない。必要なのは、すり減った神経を強引に引き戻すための、温かくて、カロリーのある、圧倒的な食の暴力だ。
直樹は小さな鉄のスキレットを取り出し、たっぷりのオリーブオイルを注いだ。
そこに、包丁の腹で荒く潰したニンニクと鷹の爪、そしてアンチョビのフィレを数枚落とす。火にかけると、すぐにチリチリという軽快な音と共に、食欲を直接殴りつけるようなニンニクの香ばしい匂いが夜の空気に弾けた。
両手で顔を覆っていたベルが、その匂いに弾かれたように顔を上げる。
直樹はそこに、大ぶりに切った新鮮な真ダコと、丸ごとのブラウンマッシュルームを投入した。
油が激しく跳ねる音。タコが熱せられて赤く色づき、マッシュルームがアンチョビの旨味が溶け出したオイルを貪欲に吸い込んでいく。
最後に岩塩で味の輪郭を整え、刻んだパセリを散らす。
「ほら。熱いうちにどうぞ」
直樹は熱々のスキレットを木製の鍋敷きに乗せてベルの前に置き、薄くスライスして軽く炙ったバゲットの入った籠を添えた。
「……夜中に、こんなオイルまみれのもの……」
ベルは微かに口元を引きつらせたが、その鼻腔を完全に支配する暴力的なニンニクとアンチョビの香りに、彼女の胃袋が理性よりも早く降伏の合図を出していた。
手渡された木製のフォークでマッシュルームを刺し、フーフーと息を吹きかけてから、そっと口に運ぶ。
「……っ」
瞬間、ベルの瞳孔が大きく見開かれた。
マッシュルームを噛み締めた途端、中から熱々のオイルと共に、アンチョビの深いコクとニンニクの香りが強烈に爆発した。
続いてタコを口に運ぶ。絶妙な火入れでプリプリとした弾力を保ったタコは、噛むほどに海の旨味と塩気を滲み出させる。
ベルは無意識のうちにバゲットを手に取り、スキレットの底に残ったオイルにたっぷりと浸して口に放り込んだ。
炭水化物と脂質、そして強烈な塩気。
深夜の静寂の中で味わうその背徳的な美味さは、数日間の徹夜と極度のプレッシャーで死に絶えていた彼女の胃袋と五感に、強引なまでの活力を叩き込んでいた。
「美味しい……すごく、美味しい」
ベルはフォークを動かす手を止められなかった。
あっという間にスキレットを空にし、最後のバゲットでオイルを綺麗に拭き取って食べ終えると、彼女は深く、今度は確かな安堵の混じった息を吐き出した。
「少しは落ち着いたか」
「……ええ。なんだか、バカみたいね。お腹がいっぱいになったら、自分がすごくちっぽけなことで絶望していたような気がしてきたわ」
ベルは直樹から手渡された温かいハーブティーのカップを両手で包み込み、夜の海を見つめた。
潮騒の音が、二人の間の静寂を優しく埋めている。
「……ナオ。一つ、あなたに頼みたいことがあるの」
ベルの声は、先ほどまでの絶望感から抜け出し、いつもの『天才外科医』としての静かな凄みと、同時に深い葛藤を帯びていた。
「私の財団が保護している、あるVIPの少女がいるの。……肉体的な治療は終わったわ。命に別状はない。でも、彼女の心は、無機質な特別病室の壁の中で、日に日に死んでいっている」
ベルはカップの水面を見つめたまま、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「あの子を救えるのは、もう医療や薬じゃない。……ナオ。あの子を、この島で療養させてもらえないかしら」
それは、ベルにとって苦渋の決断だったはずだ。
直樹が作り上げたこの島は、彼女たちにとって何者にも侵されない絶対的な『聖域』だ。そこに、自分の仕事の都合で部外者を引き入れることは、直樹の平穏を脅かす行為に他ならない。
だからこそ、彼女はあれほど重い足取りで島を訪れたのだ。
直樹はランタンの火を少しだけ絞り、夜風に目を細めた。
「構わないぞ」
「え……?」
ベルが驚いて顔を上げる。
「医療設備や護衛の手配はそっちでやってくれ。俺は医者じゃないからな」
直樹は淡々と、いつものようにフラットな声で言った。
「だが、飯を食わせて、風に当たらせるくらいならできる。それでその子が元気になるなら、連れてくればいい」
「ナオ、でも……ここは、あなたの大切な……」
「この島は広い。一人くらい増えたところで、俺の開拓作業に支障はないさ」
直樹の言葉には、気負いも、打算もなかった。
ただ「困っているなら場所を貸す」「腹が減っているなら飯を作る」。彼にとっては、限界社畜時代から何一つ変わっていない、ただそれだけのシンプルな判断だった。
ベルは、直樹のその変わらない横顔をじっと見つめ、やがて堪えきれないようにふっと口元を綻ばせた。
「……本当に、あんたには敵わないわね。底なしの善人なんだから」
ベルの瞳から、先ほどの痛ましいほどの緊張感は完全に消え去っていた。彼女はハーブティーをゆっくりと一口飲み、波音に耳を傾ける。
静かな深夜の無人島。オイルとニンニクの微かな残り香が漂う中、ベルの顔には、本来の彼女らしい、気丈で柔らかな微笑みが戻っていた。




