縁 (7)
翌朝、ノックスは重い思いを抱えたまま学院への道を歩いていた。
今朝は、家の様子がどこか普段と違っていた。出かけるとき、両親のどちらも家にいなかったのだ。
いつもならどちらかはいるはずなのに——それだけで胸に小さな違和感が灯る。
もしかして、昨日の襲撃と関係があるのか?
考えを巡らせていると、背後から車輪が地面をこする音が近づいてきた。
反応する間もなく、誰かの手が勢いよく彼の肩を叩いた。
「おっはよー、普通生徒くん!」
元気な声が耳に届き、ノックスが振り向くと、そこには自転車に乗ったアリアンがいた。
彼女は陽気な笑みを浮かべながら、ハンドルに手をかけてこちらを覗き込んでくる。
「おはよう。」
ノックスはそっけなく返し、再び前を向いて歩き出す。
だが、アリアンはすぐに異変に気付いた。自転車で並走しながら問いかける。
「……なんか、顔色悪くない? どうしたの?」
ノックスは皮肉混じりに口元を緩めた。
「君にまで気付かれるとは、今日は相当ひどい顔なんだな。」
「ちょ、なによそれっ!」
アリアンがぷくっと頬を膨らませたそのとき、ふとノックスの袖に目が留まる。
「ちょっと、それ……袖、破けてるじゃん? これって……誰かに切られたの?」
ノックスはチラリと袖口を見て、苦笑する。
「観察力、意外と上達したみたいだな。」
「それって褒めてるの? それともイヤミ?」
アリアンは思わず睨み返すが、すぐに真剣な表情に変わる。
「……昨日、何があったの?」
ノックスが答えようとした、そのときだった。
一台の黒塗りの高級車が二人の横を静かに追い越し、校門の前でぴたりと止まった。
運転手が素早く降り、後部ドアを開けると、
そこから降りてきたのは、黒髪の少女だった。
整った制服に身を包み、どこか気品を感じさせる立ち姿。
その少女の紅い瞳が一瞬、ノックスとアリアンの方を見やったが、すぐに視線を逸らす。
その無表情な態度には、冷淡さすら漂っていた。
「……セレナ?」
ノックスとアリアンがほぼ同時に名前を呟く。
驚いたように目を合わせる二人。
「ちょ、なんであなた、私の妹の名前知ってるの!?」
「知らなかったよ……彼女が君の妹だとはな。」
ノックスは肩をすくめながら、無表情で付け加える。
「俺のこの袖を裂いたのが、彼女だったとは思わなかったけどね。」
「は……?」
アリアンの目が見開かれる。
ノックスは無言で黒髪の少女へと歩み寄る。
その目には怒りと疑念が宿っていた。
彼女の正面で立ち止まり、低い声で問いただす。
「なぜ、俺を襲った?」
少女——セレナは、感情のない瞳で彼を見つめ返し、冷ややかに口を開く。
「知らない。あんたなんか。」
「知らない?」
ノックスの声には怒りが滲んでいた。
「昨夜、村の道で俺を切りかかったのは君だろう?」
「えっ……セレナ、本当に……?」
アリアンは慌てて二人の間に割って入る。だがセレナは返事をしない。
冷たい視線がノックスを刺す。
まるで「それが何か?」とでも言いたげに。
「説明する気がないなら——君は“全ての悪魔”に、無差別に刃を向ける人間だってことでいいな。」
その言葉にセレナの眉がわずかに動いた。だが彼女は、わずかに吐き捨てるように言う。
「……誤認だった。」
「誤認……?」
ノックスは冷笑を漏らす。
「それで済ませるつもりか?」
緊張感が周囲に張り詰める。
校門近くの学生たちがざわつき始め、何人かが足を止めてこちらを見ていた。
アリアンはセレナに向き直り、声を荒げる。
「ちょっと、セレナ!? 本当にノックスを襲ったの!? 何考えてるの!?」
だが妹の反応は冷たいものだった。
「……悪魔に、説明する義理なんてない。」
その一言が引き金となり、場の空気は一気に凍りついた。
ノックスはその言葉を飲み込み、しばらく黙っていたが、やがて静かに背を向ける。
「もういい。好きにすればいいさ。」
その背中には、怒りも、落胆も、そして諦めも入り混じった沈黙が漂っていた。
彼は振り返らずに歩き去っていく。
アリアンは彼の背中を見つめ、戸惑いを隠せないまま立ち尽くす。
「セレナ、なんで今になって学校に来たの? 最近ずっと来てなかったのに……」
彼女は恐る恐る尋ねるが、セレナは答えなかった。
ただ、ノックスの去っていく背を無言で見つめ、拳を固く握りしめる。
その瞳には、揺れるような複雑な感情が宿っていた。
それは怒りか、後悔か、あるいは——何か別の思いか。
彼女の沈黙が、すべてを語っているようだった。
◇
ノックスは足早に学院へ向かいながら、心の中で毒づいていた。
(全部、訳がわからない……!)
昨夜、突然の襲撃。
それに対する両親の異様なまでの冷静さ。
そして今日、あの襲撃者に再び遭遇したかと思えば、そいつはまさかのアリアンの妹——セレナだった。
あまりに都合よく繋がりすぎる出来事の連鎖。
まるで見えない蜘蛛の糸に絡め取られ、もがけばもがくほど深みに沈んでいく感覚に、ノックスは苛立ちを募らせた。
(「勘違いだった」……)
セレナが吐き捨てたその言葉が、喉に小骨のように引っかかり、何度頭を振っても振り払えなかった。
あの冷淡な態度と、無造作な物言い。
何もかもが、ノックスの怒りに油を注いでいた。
そしてアリアン。
彼女の驚きが演技でないことは明白だったが、無知な振る舞いが、さらにノックスの混乱を加速させた。
——本当に、彼女は妹の行動を何も知らなかったのか?
(わけがわからない……)
ノックスは低くうめき、拳を強く握りしめた。
指先が白くなるほど力を込め、無意識のうちに歩くスピードも速まっていく。
怒り。
困惑。
焦燥。
あらゆる感情が心の中で渦巻き、彼自身を掻き乱していった。
ノックスは、生まれて初めてかもしれないほど強い怒りを感じていた。
それはセレナに対するものではなかった。
——誰も何も教えてくれないこと。
——真実を知るために手を伸ばしても、誰も応えないこと。
その無力感こそが、彼の怒りの正体だった。
(これは偶然なんかじゃない……)
ノックスはそう確信していた。
バラバラに見える出来事の裏には、必ず何か繋がりがある。
そして、自分はすでにその中心に踏み込んでしまった。
もう、後戻りはできない。
ノックスは深く息を吸い、必死に怒りを押さえ込もうとした。
だが、内側に燃え盛る炎は、簡単に鎮まってはくれなかった。
-第五章 (完)-




