家族(3)
後庭の空き地は広々としていて、地面は平坦に整えられていた。
周囲には青々とした低木が植えられ、土の匂いが風に乗ってふわりと漂ってくる。
アイデンは小さな木箱を開き、中から一台のポータブル符紋装置を取り出した。
銀色の外装には複雑な符紋のラインがびっしりと彫り込まれている。
彼はそれを地面に置き、起動させた。
低い振動音が響き、同時に透明な光の幕が周囲に立ち上がる。
水面のように揺らめく光は、空き地をすっぽりと覆い、外界と切り離された小さな結界を作り出した。
「よし、これで安全だ」
アイデンは満足そうに手を叩き、結界の安定性に自信たっぷりな様子を見せる。
ノックスとカルマは、動きやすい服に着替えていた。
カルマは深紅のスポーツブラとぴったりしたレギンス姿。
軽快な恰好に加え、結界が起動すると同時に、腰背から薄膜状の悪魔の翼が広がる。
その翼は陽光を浴びて、かすかに光を放ち、まるで戦いのために生まれた存在のような気配を纏っていた。
「今日はたっぷり動くわよ、ヨルちゃん。気楽に楽しみなさい」
カルマは手首を回しながら、にやりと笑う。
ノックスは深灰色のTシャツとスポーツパンツというシンプルな服装で、黙々と肩や脚をストレッチしていた。
冷静な表情のまま、目だけはカルマの動きを一瞬たりとも逃していない。
結界の外では、炎が車椅子に座っていた。
膝には柔らかそうなブランケットをかけ、静かに二人の様子を見守っている。
表情はいつもと変わらず淡々としているが――ノックスには、父の視線の奥に微かな期待と何かを感じ取ることができた。
その隣で、アイデンは腕を組み、気楽な笑みを浮かべていた。
「カルマは準備万端だし、ノックスもそう簡単には負けないだろうな」
「負けない」
炎の声は低く、揺るぎない。
アイデンは肩をすくめ、からかうように笑った。
「でも俺はカルマに賭けるよ」
炎はちらりと彼を見て、静かに言った。
「当然だ」
カルマは戦う前の軽いストレッチを終え、軽く前傾姿勢を取った。
足を肩幅に開き、柔らかな起動姿勢を取る。
翼を小さく羽ばたかせ、空気の抵抗を測るように動かしていた。
「準備はいい?」
カルマが声をかける。
ノックスは大きく息を吸い、両手を構えた。
「いつでも」
カルマは口角を上げ、挑発的に笑う。
「じゃあ、がっかりさせないでね」
言うが早いか、カルマが一瞬で間合いを詰めてきた。
悪魔の翼が大気を切り裂き、彼女の拳がノックスの胸元に向かって一直線に突き出される。
ノックスは咄嗟に一歩後退し、腕を上げてガードした。
だが、直撃した衝撃は想像以上に重かった。
(……やっぱり、母さんの力は容赦ない)
腕が痺れた感覚に、内心で小さく呟く。
「反応は悪くないね」
カルマは嬉しそうに笑うと、翼をバサリと広げ、その推進力を使って素早く側面に回り込む。
ぐるりと体を旋回させたカルマの脚が、ノックスの足元を薙ぐように襲いかかった。
ノックスは即座に小さく跳躍してかわし、距離を取る。
軽率な反撃には出ず、冷静に彼女の動きを観察する。
カルマは再び突進し、鋭い拳を側面から繰り出してきた。
ノックスは腕をクロスさせて防いだが、それでも押し込まれる力に、僅かにバランスを崩しかけた。
「なかなかやるじゃない」
カルマは微笑みながら、今度は回転しながら肘打ちを叩き込んできた。
ノックスは避けきれず、肩に浅く当たった衝撃に顔をしかめる。
「ぐっ……」
痛みを堪えながら素早く後退する。
触れた肩は赤くなり、薄皮が破れたようだ。
カルマも軽く振った腕に、ノックスの反撃による火傷の跡を見つけた。
微かな痛みに眉をしかめるが、すぐに小さく笑った。
結界内の微かな緑光が瞬き、二人の小さな傷はみるみる癒えていく。
痛みは消え、肌は元通り滑らかになった。
まるで、何事もなかったかのように。
結界の外。
炎は静かに、しかし真剣な眼差しで場内の模擬戦を見つめていた。
ノックスの肩にできた擦り傷が、結界の光に包まれてゆっくりと癒えていくのを見届けると、彼は淡々と口を開いた。
「これが……お前とリアが長年かけて研究してきた成果か」
隣で腕を組んでいたアイデンは、満足げに笑みを浮かべる。
「ああ、間違いないよ。俺たちが開発した特別な結界だ」
彼は軽く顎をしゃくり、模擬戦を繰り広げる二人を指さした。
「このフィールド内では、魔力による負傷も肉体的な小さな怪我も、緩やかだけど確実に自己修復される仕組みになってる。これなら、訓練生も指導者も安心して思いきり戦えるってわけだ」
炎は小さく頷き、静かに言った。
「……悪くない。訓練には最適な環境だ」
アイデンは肩をすくめ、軽い口調で続ける。
「ただ安全ってだけじゃない。こうやって多少の怪我を恐れずに戦えるからこそ、奴らは実戦経験を積んで強くなれるんだよ」
炎は再び視線をノックスへと戻す。
息子が場のリズムに適応し、鋭さを増していく様を見つめながら、目の奥に微かな満足感を滲ませた。
場内では――
カルマが腕を軽く振って、完治した肩を確かめると、口元に満足そうな笑みを浮かべた。
「結界、いい感じね。これなら……もっと本気でいけるわね」
彼女は悪魔の翼を広げ、指先を軽く鳴らすと、鋭い殺気を帯びた視線をノックスに向けた。
対するノックスも、静かに構えを取った。
手のひらでゆらめく炎は、先ほどよりも明らかに熱を帯びている。
空気を歪ませるほどの熱量が、彼の掌からじわじわと溢れ出していた。
返事はない。
けれど、その全身から「いつでも来い」と告げていた。
カルマはニヤリと笑い、次の瞬間、地を蹴った。
一気に間合いを詰める。
連撃、連撃――容赦ない拳と蹴りが、まるで突風のようにノックスへ襲いかかる。
ノックスは正面から受け止めることなく、絶妙なタイミングでステップを踏み、交差する腕と炎の軌跡で攻撃を捌き続けた。
無理に反撃には出ない。
冷静に、徹底的に隙を探す――。
彼の火炎は、手の中で柔らかく、しかし確かな力を秘めてうねっていた。
「……ほう」
アイデンが感心したように小声を漏らす。
「想像以上に火の制御が安定してるな。あの年齢で、あれだけやれる奴はそういない」
炎は、微動だにせず見つめたまま、低く答えた。
「……あいつはもう、ただの子供じゃない」
アイデンはにっこりと笑い、軽く頷く。
「もしかしたら……数年後には、新たな伝説が生まれるかもな」
それに対して、炎は静かに言い返した。
「……普通に、生きてくれればいい」
その声には、どんな期待よりも、どんな誇りよりも――深い願いが滲んでいた。




