家族 (1)
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、リビングダイニングを柔らかく照らしていた。
漂うのは、淹れたてのコーヒーと焼きたてのパンの香り。
ノックスはぼさぼさの髪をかき上げながら、ゆったりと階段を降りてきた。
足取りは軽いが、どこか週末特有のだらしなさが混じっている。
ダイニングテーブルでは、アイデンが椅子に座り、コーヒーカップを手にしていた。
ノックスに気づくと、微笑みながら声をかける。
「おはよう、ヨル」
「……おはよう」
ノックスは軽く頷く。
その声には特別な感情はなかったが、拒絶するほどでもなかった。
テーブルの反対側には、彼の父親――炎が座っていた。
白に近い退色した短髪と無駄のない所作。静かで冷ややかな雰囲気は、感情をほとんど表に出さない。
ノックスは一瞥を送った後、視線を外す。
炎もまた、何も言わずにノックスを見返しただけだった。
キッチンから、母親カルマの陽気な声が響く。
「ヨルちゃん、起きたのね! 朝ごはん、何が食べたい?」
ノックスはソファに歩み寄り、ぽんと腰を下ろす。
そしてソファの隅で丸くなっている黒猫の魔獣――アルに手を伸ばした。
アルはうつらうつらしていたが、ノックスの手が近づくと耳をぴくりと動かし、渋々と顔を上げた。
「……何でもいいよ、ママ」
ノックスは気だるげに答えながら、アルの耳の後ろをやさしく撫でた。
カルマはキッチンから顔を覗かせ、にっこりと笑う。
「何でも、ね? じゃあ、いろいろ作っちゃおうかな!」
ノックスは小さくため息をついたが、反論はしなかった。
そんな母の甘やかしには、もうすっかり慣れていた。
ダイニングには、穏やかな空気が流れていた。
けれどノックスは知っていた――大人たちの話題は、きっと自分には無縁のものだということを。
彼はアルの柔らかな毛並みを撫でながら、ふと数か月前の朝を思い出していた。
──同じ陽光、同じ香り、だが違う空気。
◆
あの日も、アイデンは同じ場所でコーヒーカップを手にしていた。
「エン、本気で言ってる。ノックスを学院に通わせた方がいい。友達を作るなり、同じ立場の子たちを知るなり……」
アイデンの声は、いつものように軽やかだった。
だが炎は、わずかに眉を動かすだけで、冷静に返した。
「必要ない」
短く、しかし絶対に揺るがない声音だった。
アイデンは眉をひそめ、カップを置いて真正面から炎を見つめる。
「……ソレイアのこと、まだ引きずってるのか?」
その名前が落ちた瞬間、室内の空気が一変した。
炎の指がカップを持つ手にわずかに力を込める。
そして顔を上げ、静かな怒気をにじませて言った。
「忘れられるわけがないだろう」
ノックスは固まった。
初めて聞く名前――ソレイア。
だが、父の声に滲む痛みだけは、はっきりと伝わった。
「ソレイアって、誰……?」
ノックスは思わず尋ねた。
その瞬間、カルマが静かに彼を抱き寄せ、優しい声で囁く。
「……昔の友達よ、ノックス。ただ、それだけ」
彼女の伏せたまつ毛から、隠しきれない悲しみが零れ落ちていた。
炎の視線は、ノックスとカルマを一瞥すると、アイデンには向けず、ぼそりと言った。
「……二度と口にしない約束だったろう」
アイデンは短く詫び、深く息をついた。
「悪かった。でも……エン、わかってるだろう?」
彼の声は真剣だった。
「ノックスをここに閉じ込めてばかりじゃ、彼は何も知らないままだ。
自分の存在と向き合う機会もないまま、大人になってしまう」
炎はしばし沈黙したあと、ノックスに静かに視線を向けた。
「――お前自身は、どうしたい?」
淡々とした口調だったが、その奥には確かな期待が込められていた。
ノックスは俯き、しばらく考えた末、小さな声で答えた。
「……別に、いいよ。
学院で何か学べるなら、行ってみても」
カルマは柔らかく微笑み、念を押すように尋ねた。
「本当にいいの? 家みたいに、のんびりできる場所じゃないよ?」
ノックスは、こくりと頷いた。
学院に行くことの意味は、正直よくわからない。
それでも、アイデンが言う「自分と同じような存在」に会えるかもしれない、そんな微かな期待はあった。
炎は目を伏せ、静かに告げた。
「……何かあったら、すべてお前の責任だ」
その言葉に、アイデンはにっこりと笑った。
「任せて。ノックスの未来は、絶対に俺が守るよ」
◆
ノックスは、ふと現実に引き戻された。
カルマの明るい声がリビングに響く。
「ヨルちゃん、朝ごはんできたわよ!」
彼は立ち上がり、アルの頭をぽんと軽く叩く。
アルは面倒くさそうに尻尾を一振りしただけで、そのままソファの隅で丸まった。
ノックスは食卓に向かい、空いている席に腰を下ろした。
テーブルクロスの上に差し込む朝陽が、トーストの縁をほんのり金色に染めている。
ふと、ノックスの視線が父――炎へと向かった。
炎はいつも通り、黒いコーヒーを手にしながら、無表情で座っている。
家にいる時ですら、彼の表情は滅多に崩れない。
ノックスは俯きながら、心の中で問いかける。
(父さんって……どんな人だったんだろう?)
聞いたことがある。
父はかつて、母とコンビを組んで、ハンターズギルドで活躍していたと。
だが詳しい話は、ほとんど教えてもらえなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
五年前――すべてが変わった。
その年、炎は重傷を負い、足に大きな後遺症を残した。
それ以来、両親はハンターの仕事を辞め、家庭に専念するようになった。
当時、ノックスはまだ幼かった。
けれど、彼の成長は普通の人間とは違った。
――母カルマの、悪魔の血が流れていたからだ。
成長が早い。
十五歳に見える外見も、すべて母から受け継いだものだった。
両親の馴れ初めも、少しだけ聞いたことがある。
出会い、信頼を築き、家族になった――そんな話だ。
だが、その間にある「空白」。
特に、炎の過去については、語られることはなかった。
ノックスは、どうしてもそのことが気になっていた。