第2話『偽装』(3)
コンクリートの床にこびりついた巨大な血だまりを背に、如月瑠璃は一直線の引きずり痕が続く暗闇の深淵へと、静かに、だが一切の躊躇なく歩みを進めていた。
大正ロマンを象徴する紫の矢絣の着物が、周囲の配管から絶え間なく噴き出す高圧蒸気の白煙を切り裂いていく。ガス燈代わりの裸電球の光はすでに届かず、空間は完全な漆黒に近づきつつあった。四十度を超える異常な熱気と、肺を焼くような防錆油の酸化臭が、歩を進めるごとにその暴力的な濃度を増していく。
しかし、孤高の天才鑑定士である彼女の歩幅は、一ミリの狂いもなく一定に保たれていた。暗闇という視覚的恐怖も、熱波という物理的苦痛も、今の彼女の脳髄が回している極限の演算処理を妨げる要素にはなり得ない。
(物理が証明した『圧倒的な機械の力』と、情動が焙り出した『殺意のルーツの欠落』。……この二つの事象が完全に結合した今、警察が怯えていた連続殺人鬼という巨大な虚像は、最早、無惨な残骸にすぎぬな)
瑠璃は、純白の手袋をはめた指先で、帯の間に挟んだ懐中時計の冷たい銀の感触を確かめながら、自身の脳内で事象の最終的な再構築を行っていた。
犯人にとって、本当に執着し、手に入れたかった『真の標的』は、第一の事件で姿を消した山崎由美子という一人の女性だけであった。その後に続いた、見ず知らずのカップルや夫婦を襲った第二から第四の惨劇は、すべて第一の事件の真実を隠蔽するために用意された、ただの無価値なダミーにすぎない。
(かの有名な『ABC殺人事件』の構図と全く同じじゃな。アルファベット順に無関係な人間が殺されていくという、華々しくも異常な連続殺人の法則性。だがそれは、たった一つの『真の標的』の死を、無差別殺人という巨大なパターンの暗がりに紛れ込ませるための、極めて古典的で卑劣な偽装工作であった。……一枚の木の葉を隠すために、偽りの森を造り上げるという手口)
瑠璃の薄い唇に、知性の傲慢さを孕んだ冷酷な笑みが浮かぶ。
犯人の意匠は、この咲浜市というアナログな迷宮において、見事に機能していたと言えるだろう。瀬田警部補をはじめとする月見坂市警の刑事たちは、犯人がバラ撒いた『幸せそうな男女のペアを狙う異常者』という派手な森の幻影に完全に目を奪われ、右往左往していたのだから。
(もし、あの第一の事件だけで終わっていれば、警察の捜査網はどう動いたか。観光客の父親が重傷を負い、娘が姿を消した。身代金の要求もない。となれば、警察は真っ先に『娘である由美子に対し、個人的な強い執着を持つ身近な人間』や、『二人がいなくなることで遺産などの法的な利益を得る親族』を容疑者の筆頭に挙げるはずじゃ。捜査の目は、瞬く間に犯人の首元へと迫っていたであろう。だが、犯人はそれを回避するために、蒸気圧ウインチという『労力を伴わない機械的な殺戮装置』を用い、無関係な男女を次々と奈落へ突き落とした。事件を『身内の犯行』から『広域のシリアルキラー』へとすり替えるために)
暗闇の中を歩きながら、瑠璃の脳内におけるプロファイリングの網は、すでに犯人の逃げ道を完全に塞ぎつつあった。
連続殺人というカモフラージュの構造が暴かれた以上、犯人像を特定するための条件は、極めてシンプルかつ残酷なまでに限定される。
(条件の第一。インフラへの完全なるアクセス権。この一般の立ち入りが厳しく禁じられた地下の旧式ボイラー区画に自由に出入りし、蒸気圧という強大な力を犯罪に転用できるだけの、高度な技術的知識と地理的優位を持つ者。警察の捜査の目を掻き潜り、この広大な地下施設を己の庭のように歩ける人間じゃ)
瑠璃の編み上げブーツが、コンクリートの床に散らばっていた石炭の煤を静かに踏み砕く。
(条件の第二。被害者への異常な執着と独占欲。第一の事件の被害者である山崎由美子を殺害するのではなく、神隠しに見せかけて密室に連れ去り、己の完全な支配下に置くことで、歪んだ精神的な満足感、あるいは法的な利益を独占的に得る立場にある者)
そして、瑠璃のアメジストの瞳が、暗闇の中で最も鋭い光を放った。
(条件の第三。これこそが最も決定的な要素じゃ。わざわざ『連続殺人鬼』という虚像を演出し、警察の目を広域へと逸らすことによって、最大の恩恵を受ける人物。すなわち、連続殺人というカモフラージュがなければ、本来であれば『真っ先に第一容疑者として警察からマークされていたはずの人物』)
これらの三つの条件の結節点に位置する人間は、この世界にただ一人しか存在しない。
見ず知らずの通り魔でもなければ、街の地下に潜む異常犯罪者でもない。
(……ふん。犯人は外部の人間ではない。最初から、第一の事件の周辺に悲劇の当事者として身を潜めている『第一の被害者の身内、あるいは極めて近しい関係者』以外には絶対にあり得ぬな)
瑠璃の論理は、ここに極まった。
具体的な個人名は、地上で情報検索を行っているであろうサクタロウからのデータ報告を待たねば確定しない。だが、その人物が纏っているはずの『罪のルーツ』は、最早言い逃れのできないレベルで完全に包囲されていた。
親族や関係者という隠れ蓑を使い、被害者を案じる素振りを演じながら、その裏でこの巨大な蒸気と歯車を操り、自身の欲望のためだけに無関係な人々を作業として処理した、身勝手で歪んだエゴの持ち主。
(異常者の凶行ではなく、ひどく陳腐で俗物的なエゴのために他者の命を奪った卑劣漢。……その浅ましいルーツに、同情や理解を示す余地など一ミリも存在せぬわ)
瑠璃の足が、ピタリと止まった。
一直線に続いていた血と油の引きずり痕が、目の前にある分厚い鉄の壁と、床に設置された四角い鉄の蓋の前で途絶えていたのだ。
それは、石炭の燃えカスや灰を地下深くに廃棄するために設けられた、ダストシュートの入り口であった。
(引きずり痕はここまで続いている。だが、このダストシュートの穴の中に被害者を放り込んだと考えるのは、物理的に不自然じゃ)
瑠璃は純銀のルーペを取り出し、ダストシュートの鉄蓋とその周囲の構造を観察した。
蓋のサイズは六十センチ四方。大人の人間を無理やり押し込むことは可能かもしれないが、蒸気圧ウインチで牽引してきた二人の肉体を、自動でこの狭い穴に落とし込むような都合の良い機構は存在していない。それに、この穴の先が焼却炉や灰の貯蔵庫であるならば、肉体は完全に灰になるか、あるいは山積みの灰の上に放置されるだけであり、いずれ警察が地下を徹底的に捜索すれば必ず死体は発見されてしまう。
(犯人の目的は死体の遺棄ではない。第一の事件の被害者である由美子を『生きたまま監禁し、手元に置く』ことじゃ。ならば、このダストシュートはただの目印、あるいは中継地点にすぎぬ。犯人は牽引してきた肉体をここで一度止め、別の安全な『隠し部屋』へと運び込んでいるはずじゃ)
瑠璃は視線を床から上げ、目の前にそびえ立つ煤にまみれたコンクリートの壁面へと焦点を合わせた。
彼女は着物の袂から純銀製のアンティークの匙を取り出すと、その硬質な柄の先端で、コンクリートの壁をコン、コン、と規則正しく叩き始めた。
(壁の厚み、反響音の周波数、そして……表面の温度勾配)
周囲には無数の高圧蒸気パイプが這い回っており、壁面は一様に熱を帯びている。しかし、瑠璃の研ぎ澄まされた触覚と物理的観察眼は、壁のわずかな一角だけが、周囲のコンクリートとは異なる『熱伝導率』を示していることを見逃さなかった。
壁の表面に厚くこびりついた石炭の煤を、純白の手袋で躊躇なく拭い去る。
すると、コンクリートに偽装するようにして塗料が塗られた、巨大な『鉄の扉』の輪郭が浮かび上がった。
デジタルロックはおろか、鍵穴すら存在しない。あるのは、巨大な歯車とカンヌキによって物理的にロックを解除するための、赤錆の浮いた重厚な回転式ハンドルだけであった。
(見つけたぞ。ダストシュートという廃棄ルートに沿って設計された、点検用の『並行メンテナンス通路』への隠し扉。……この最深部の先に、連続殺人という森を造り上げた庭師が、盗んだ木の葉と共に息を潜めているというわけじゃな)
瑠璃は、純白の手袋をはめた両手を、その冷たく重い鉄のハンドルへと掛けた。
事件の全貌は、すでに名探偵の冷徹な脳髄の中で解体されている。あとは、この重い扉を開き、自らの醜悪なエゴに溺れる犯人を論理という名のメスで切り刻むだけである。
瑠璃は自身の体重をかけ、長年の錆で固着したハンドルを力強く回した。
ギギギィッ……という重苦しい金属音が暗闇に響き渡り、隠し扉のカンヌキが外れる。
瑠璃は一切の警戒を抱くことなく、その扉を押し開き、熱気と無音に包まれた未知の通路へと足を踏み入れた。
このアナログな鉄の扉の裏側に、警察や部外者が真実に近づいた際に起動する、極めて古典的で、かつ非人道的な『物理トラップ』が仕掛けられていることなど、この時の彼女は知る由もなかった。
如月瑠璃の知性は、論理を追うことには長けていても、犯人の追い詰められた『狂気のフェイルセーフ』までは計算に入れていなかったのである。




