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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽装』(2)

 圧倒的な物理法則の暴力を利用した、蒸気仕掛けの密室。

 不可能犯罪の城壁は、如月瑠璃という孤高の天才鑑定士の冷徹なロジックの前に、もはや完全に瓦解していた。

 天井のレールに懸架された巨大な滑車と、高圧蒸気を動力源とする自動巻き上げ式のウインチ。犯人は自らの老いた腕力や体力を一切使うことなく、ただ被害者の衣服にフックを掛け、壁面のバルブをひねるだけで、百キログラムを超える大人二人分の肉体をダストシュートの暗闇へと一瞬にして吸い込ませたのである。床に残された完璧な一直線の引きずり痕は、この機械的な『運搬作業』が行われたことを示す、揺るぎない物理的証明(ハウダニット)であった。


 しかし、物理的なからくりが解明されたからといって、事象のルーツがすべて明らかになったわけではない。

 『いかにして(How)』の次は、『なぜ(Why)』というパズルのピースを嵌め込まねばならない。

 なぜ犯人は、わざわざこのような手の込んだ機械的ギミックを用いてまで、被害者を殺害現場から運び出し、隠蔽する必要があったのか。しかも、連続して四組もの男女を襲い、同じように神隠しを演出し続けているのか。

 瀬田警部補をはじめとする月見坂市警の刑事たちは、この連続事件を『幸せそうな男女のペアを憎悪する、異常な快楽殺人鬼の仕業』であるとプロファイリングしていた。確かに、表面的な被害者の共通点だけを抽出(サンプリング)すれば、そのような凡庸な結論に飛びつきたくなるのも無理はない。


「番犬どもの見立て通り、これが異常者の快楽殺人であるならば、この現場には『それ相応の痕跡』が残されていなければ論理に反する」


 瑠璃は、灼熱の熱気と高圧蒸気の排気音が支配する旧式ボイラー区画の空間で、誰に聞かせるわけでもなく静かに呟いた。

 彼女は、純白のレースの手袋をはめた右手を自身の帯へと伸ばし、そこに挟み込んでいた銀の懐中時計をゆっくりと取り出した。精緻な蔓草のレリーフが施された冷たい銀の蓋を、親指の腹でカチリと弾き開ける。

 チク、タク、チク、タク。

 周囲の巨大な歯車が立てる地鳴りのような重低音と、蒸気が噴き出す甲高いノイズに包まれたこの極限環境の中にあっても、スイスの熟練時計技師が組み上げたその機械式時計の秒針は、一ミリの狂いもなく絶対的な時間を刻み続けている。

 瑠璃はその規則正しい秒針の音に自身の鼓膜の焦点を合わせ、同時に、脳内の情報処理機構のモードを『物理』から『情動』へと完全に切り替えるための、精密な自己調律(チューニング)を開始した。


(視覚、嗅覚、聴覚、触覚……外界の物理的ノイズをすべて遮断する。観測の対象を、物質の表面から、そこにこびりついた『波形』へと移行させるのじゃ)


 瑠璃の深いアメジストの瞳が、ゆっくりと閉じられた。

 その瞬間、彼女を取り巻いていた四十度を超える熱波も、防錆油の強烈な悪臭も、鼓膜を破らんばかりの機械音も、すべてが暗い水底へと沈んでいくように遠ざかり、やがて完全な『無音と漆黒の空間』が訪れた。

 これはオカルトや超能力の類ではない。五感から入力される莫大な物理情報を脳内で意図的にシャットアウトし、物質に残留した人間の強い感情のエネルギー――すなわち『情動のノイズ』のみを、極限まで高められた共感覚的な感受性によって読み取るための、瑠璃独自の高度な脳内処理プロセスであった。彼女は亡き親友である皐月優奈の死という凄惨なルーツと向き合う過程で、この呪いにも似た『情動の視座』を会得したのである。

 しかし、瑠璃はそのノイズに対して、決して人間的な『共感』や『同情』を寄せることはない。彼女はただ、空間に漂う悲鳴や怨嗟の声を、空気の振動や光のスペクトルと同じ『単なる物理的な波形データ』として、極めて冷酷に、そして事務的に観測し、分類するだけであった。


 瑠璃の意識が、自身の足元に広がる巨大な血だまり――昨夜、この場所で致命的な暴力を受けた第四の事件の被害者である『夫婦』の鮮血へと深く潜行していく。

 漆黒の空間に、突如として赤黒い閃光が走り、不規則で暴力的なノイズが再生され始めた。


『――痛い!』

『――何が、何が起きたの!?』

『――助けて! 嫌だ、引きずられる! 誰か!』


それは、文字通り『絶叫の濁流』であった。

 突然の奇襲によって頭蓋を砕かれた夫の、痛覚の限界を超えた衝撃と、意識が急速に暗転していく中での圧倒的な『困惑』。

 そして、隣を歩いていた夫が血を噴き出して倒れたのを目の当たりにし、直後に自身の髪や衣服を乱暴に掴まれ、強引に床へと引き倒された妻の、理解不能な事態に対する『恐怖』と『絶望』。

 二人の人間が、安全だと思っていた日常から突如として地獄の底へと突き落とされた瞬間の、生の感情の爆発。並の人間であれば、そのあまりにも生々しい恐怖と痛みのノイズに当てられ、発狂するか、あるいはその場に泣き崩れてしまっていただろう。

 しかし、瑠璃の意識は、その凄惨なノイズの渦のど真ん中にありながら、絶対零度の氷のように冷たく、そして静まり返っていた。


(……なるほど。確かに強い恐怖と痛みのノイズじゃ。だが、ひどく『単調』じゃな)


 瑠璃は、被害者夫婦が放つパニックの波形を冷徹に分析しながら、そのノイズの中に横たわる『決定的な欠落』を探り当てていた。

 被害者たちの情動は、ただひたすらに『突然降りかかった理不尽な暴力に対する恐怖』と『逃げ場のない絶望』で満たされている。しかし、そこには、自分たちに危害を加えた『犯人に対する直接的な恨みや憎悪』が、極めて希薄であったのだ。

 彼らは、犯人の顔を見ていない。犯人の声も聞いていない。ただ暗闇の中で、背後から突然現れた『圧倒的な暴力の塊』に蹂躙され、機械の力によって引きずり込まれただけである。それは彼らにとって、悪意を持った特定の人間からの攻撃というよりも、地震や落雷のような『回避不能な自然災害』に遭遇した時と同じ、対象の存在しないパニックであった。


(被害者のノイズに犯人の情報が含まれていないのは、死角からの奇襲であった以上、物理的に当然の帰結じゃ。……ならば、観測の焦点を変える。被害者ではなく、この血だまりの空間に交じって残留しているはずの『加害者のノイズ』を抽出するのじゃ)


 瑠璃は脳内のイコライザーを操作するように、被害者の悲鳴の周波数を意図的に落とし、代わりに、この空間で凶器を振るい、ウインチのバルブをひねった犯人の感情の波形を探り当てようと試みた。

 連続殺人鬼。しかも、幸せそうな男女のペアを執拗に狙う、異常な快楽殺人鬼。

 もし警察の見立てが正しいのであれば、この血だまりには、被害者の恐怖を貪り食うような犯人の『歪んだ歓喜』や、カップルという存在に対する『燃え盛るような憎悪』、あるいは殺戮そのものに対する『どろどろとした異常な興奮』のノイズが、むせ返るほど濃厚にこびりついているはずである。


 だが。

 瑠璃の情動の視座が捉えた犯人のノイズは、彼女の予想を遥かに下回る、異常なまでに『無機質で冷たいもの』であった。


(無い。憎しみも、歓喜も、快楽も、一切存在しておらぬ)


 瑠璃は漆黒の意識の中で、微かに眉をひそめた。

 犯人の行動をトレースする。背後から忍び寄り、鈍器を振り下ろし、妻を引き倒し、フックを掛けて、バルブをひねる。

 その一連の動作の裏側にある情動は、恐ろしいほどに『平坦』であった。まるで、工場のライン作業員が、ベルトコンベアに乗って流れてきた規格品の部品を、無感情にハンマーで叩き潰し、次の工程へと流しているかのような、徹底的な『作業感』。

 人間を殺傷し、消去するという極大の罪悪とエネルギーを伴う行為を行っているにもかかわらず、犯人の心には、感情の揺れが全く存在していない。この夫婦を殺すことに、個人的な執着も、恨みも、特別な意味も持っていないのだ。ただ『そこに男女のペアがいたから、手順通りに処理した』という、機械的で冷え切ったノイズしか残されていない。


(殺意のルーツが、完全に欠落しておる)


 瑠璃はゆっくりと目を開いた。

 再び、四十度を超える熱波と轟音が、物理空間の現実として彼女の身体を包み込む。

 彼女は純白の手袋で懐中時計の蓋をカチリと閉じ、再び帯の間に滑り込ませた。そのアメジストの瞳には、パズルの決定的な矛盾を発見した天才特有の、冷たく鋭い光が宿っていた。

 連続殺人鬼の犯行現場において、犯人の異常な情動が欠落している。これは、瀬田たち警察が構築した『連続男女ペア襲撃事件』という見立てを根底から覆す、致命的なエラーであった。


(……待てよ。わしは過去に、これとは全く質の異なる、極めて重く醜悪なノイズを観測した記憶があるな)


 瑠璃の超人的な記憶のデータベースが、瞬時に過去の事象を検索し、一つのフォルダを引きずり出した。

 それは、この咲浜市に足を踏み入れる前、旧校舎の図書室において、あの騒々しい神宮寺巡査部長が「瑠璃様、咲浜市でこんな恐ろしい事件が起きているのですよ!」とご丁寧に持ち込んできた、捜査資料の写真であった。

 一連の連続神隠し事件の始まり。今から二週間前に発生したという、『第一の事件』の現場写真。

 被害者は、観光に来ていた山崎雄一という六十三歳の父親と、その娘の由美子。父親の雄一は路地裏で刃物のようなもので滅多刺しにされて重傷を負って倒れており、娘の由美子だけが忽然と姿を消したという、最初の神隠し事件。


 瑠璃は現場に行ったわけではない。だが、神宮寺が見せたその現場写真に付着していた極微量のノイズを、彼女の『情動の視座』は正確に読み取っていた。

 第一の事件の現場に残されていたノイズ。

 それは、先ほど観測したばかりの第四の事件の『無機質な作業感』とは、完全に、そして圧倒的に対極に位置するものだった。


(あの第一の事件の路地裏の血痕には、犯人の凄まじいまでの『執着』と『明確な殺意』が、タールの如くどろどろとこびりついておった)


 瑠璃の脳裏に、写真から読み取ったノイズの記憶が鮮明に蘇る。

 雄一の身体を何度も刃物で突き刺す際の、長年蓄積されたであろう強烈な『憎悪』と『劣等感』。

 そして何より、現場から姿を消した娘・由美子に向けられていた、吐き気がするほど粘着質で、歪んだ情動。

『誰にも渡さない』『お前は俺のものだ』『俺の世界から出ていくな』という、異常なまでの『独占欲』と『支配欲』。

 それは、通り魔や快楽殺人鬼の持つ不特定多数への暴力衝動とは根本的に異なる、『山崎雄一』と『山崎由美子』という特定の個人に対してのみ向けられた、極めてパーソナルで、重く、逃れようのない呪いのような感情であった。


(……なるほど。ノイズの特異点が、完全に露呈したな)


 瑠璃の薄い唇に、冷酷な理解の笑みが浮かんだ。

 第一の事件『父親と娘』の現場には、犯人の『強烈な怨恨と、異常なまでの独占欲』という、どろどろとした殺意のルーツが明確に存在していた。犯人は、由美子を他者から引き離し、己のものにするという強固な目的意識を持って犯行に及んでいた。

 しかし、その後に発生した第二、第三、そして昨夜の第四の事件『見ず知らずの男女のペア』の現場には、犯人の情動が一切存在しない。ただひたすらに、作業工程として人間を制圧し、この蒸気仕掛けの密室トリックを用いてダストシュートへと廃棄しただけの、無機質な『処理』の痕跡しか残されていない。


(同じ犯人による連続事件でありながら、第一の事件と、それ以降の事件とでは、犯人の『内的動機』が全く異なっておる。……いや、違うな)


 瑠璃は、自らの推論をさらに一段階、冷徹にアップデートする。


(動機が変化したのではない。最初から、動機など『一つ』しか存在していなかったのじゃ)


 第一の事件には、熱狂的な感情があった。

 第二から第四の事件には、感情が抜け落ちていた。

 この決定的な『ノイズの違い』が意味するものは、極めて論理的であり、かつ、人間の浅はかな悪意の構造を白日の下に晒すものであった。

 すなわち、犯人にとって、本当に殺したかった人間、あるいは本当に手に入れたかった人間は、『第一の事件の被害者』だけであったということだ。

 見ず知らずのカップルや夫婦を襲った第二から第四の事件は、犯人の快楽や憎悪を満たすためのものではない。それらはすべて、警察の捜査の目を欺き、自らの『真の目的』を隠蔽するために、極めて計算高く、そして冷徹に実行された『無価値な追加の作業』にすぎなかったのである。


(連続殺人鬼という虚像。……ふん、実に愚かしく、そして陳腐なからくりじゃ)


 瑠璃は、血と油の匂いが立ち込めるボイラー区画の中で、警察が信じ込んでいる『森』の正体を完全に看破した。

 異常な性癖を持ったシリアルキラーなど、この街には最初から存在しない。

 存在しているのは、たった一つの歪んだ執着を隠すために、無関係な人間の命を機械の歯車のように消費し、血塗られた迷路を構築した、極めて利己的で卑劣な一人の人間の姿だけであった。


(第四の現場には、殺意のルーツが欠落しておる。これは、真実を隠すために用意されたただの『ダミー』……事務的な隠蔽作業にすぎぬ)


 瑠璃の深い紫の瞳が、再び暗闇の奥――被害者たちが引きずり込まれていったダストシュートの方向へと向けられる。


物理トリック(ハウダニット)の解体は済んだ。そして今、動機の構造(ホワイダニット)の矛盾も完全に解き明かされた。……ならば、残るパズルのピースはただ一つ。この不格好な森を造り上げた『庭師(犯人)』の特定じゃな)


 大正の幻影を纏った孤高の鑑定士は、他者の情動に一切の共感を示すことなく、ただ純粋な事象の観測者として、連続殺人という巨大な偽装のベールを冷酷に引き裂いた。

 真実のルーツは、すでに彼女の手のひらの上にある。あとは、この地下深淵の最奥に潜んでいるであろう愚かな犯人の顔の皮を、論理という名のメスで徹底的に剥ぎ取ってやるだけであった。瑠璃の歩みは、次なる解答へと向かって、一切の躊躇なく暗闇の奥へと進んでいく。



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