表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/27

第1話『交錯』(3)

 大正の幻影を纏った優雅な令嬢が、その冷徹な論理の刃を抜き放ち、蒸気の密室に潜む狂気へと自ら足を踏み入れようとした、まさにその時である。

 巨大な真鍮の歯車がカシャン、ゴトンと重厚な駆動音を響かせる時計塔の中間層に、突如として、その規則的で無機質な機械音の網目を乱暴に引き裂くような、極めて『不規則なノイズ』が混入した。

 階下の薄暗い螺旋階段の奥底から、複数の重い足音が響き渡ってきたのである。


 それは、咲浜市のミュージアム街を物珍しそうに練り歩き、非日常の情緒を消費して回る観光客たちの、軽薄で浮かれた足音とは根本的に対極に位置するものだった。実用性と耐久性のみを徹底的に追求した厚底の革靴が、長年の埃が積もった古い木板の階段を乱暴に、かついかなる不測の事態にも対応できるよう警戒を怠らぬ絶妙な重心移動で蹴り上げてくる音。大正ロマンという美しくも虚飾に満ちたテーマパークの空間において、彼らが纏って持ち込んできた空気だけは、ひどく血生臭く、泥臭く、そして極めて権力的な『現実』の重い鎖を引きずっていた。

 瑠璃は不快げに細い眉をひそめ、冷ややかなアメジストの瞳を階段の下へと向けた。

 血の匂いを嗅ぎつけた猟犬たちの登場である。


 薄暗い階段のカーブを曲がり、瑠璃が佇む三階の踊り場へと重い足取りで姿を現したのは、二人の男だった。

 先頭に立つのは、このスチームパンクの洗練された美しい街並みには全く似つかわしくない、使い古されて襟元がヨレヨレになったトレンチコートを羽織った中年の男である。無精髭を無造作に蓄えた顎、徹夜明けであることを雄弁に物語る充血した鋭い三白眼。そして、この密閉された時計塔の空間においてすら周囲への配慮など微塵も見せずに安物の紙巻きタバコを深く咥え、紫煙の匂いを自身の全身の繊維、そして肺の奥底にまで深く染み込ませている。

 その後ろからは、中年の男とは対照的に、仕立ての良いスーツをきっちりと着込み、髪を七三に分けた生真面目そうな若い男が息を切らせてついてきていた。強い正義感と使命感を絵に描いたようなその顔立ちは、極度の緊張によって固く強張っている。


 月見坂市警のベテラン刑事である瀬田警部補と、その後輩の神宮寺巡査部長。

 孤高の天才鑑定士である如月瑠璃にとって、彼らは決して見知らぬ他人の顔ではなかった。月見坂市のスマートシティという洗練された舞台で発生した過去のいくつかの不可解な事件において、瑠璃が純粋な知的好奇心から気まぐれに『モノのルーツ』を辿ったその現場には、常にこの二人の刑事が、まるで真実に遅れてやってくる後始末の清掃員のように立ち入ってきていたからである。


「おい……。こんな人気のない階段の途中で、観光客のガキが何やってやがる。ここは遊び場じゃ――」


 瀬田が咥えタバコを揺らしながら、吐き捨てるように瑠璃に向かって言い放とうとした言葉は、しかし、最後まで続くことはなかった。

 瀬田の広い背中の後ろから顔を出した神宮寺が、ガス燈の淡い光の中に佇む瑠璃の姿を視界に捉えた瞬間、まるで落雷にでも打たれたかのように全身を硬直させ、次の瞬間には、時計塔の駆動音すらかき消すほどの爆発的な歓喜の声を上げたからである。


「お、おお……っ! る、瑠璃様! 如月瑠璃様ではございませんか!!」


「あァ?」


 神宮寺の裏返ったような、狂気を孕んだ大声に、瀬田が怪訝な顔で振り返る。

 しかし神宮寺は先輩刑事の訝しげな視線や制止など全く意に介さず、階段を二、三段飛ばしで猛然と駆け上がり、瑠璃の数メートル手前で勢いよく直立不動の姿勢をとった。その見開かれた瞳には、一介の民間人に対するものを遥かに超えた、狂信的なまでの崇拝と熱狂の光が宿っていた。


「まさか、このようなむさ苦しく危険な場所で、再び瑠璃様にお目にかかれるとは……! 本日は月見坂市ではなく、この咲浜市への校外学習であらせられましたか! それにしても、本日のその大正浪漫の御召し物、あまりにも美しく、完璧で、まるで歴史の教科書から正義の女神がそのまま舞い降りたかのようで……ッ!」


「……(やかま)しいぞ。わしの神聖な思考の領域に、無価値なノイズを撒き散らすな」


 矢継ぎ早に捲し立てる神宮寺の言葉を、瑠璃は絶対零度の声と視線で一刀両断にした。

 神宮寺海斗。月見坂市警にあって、若くして優秀な成績を収める正義感の強い男であるが、こと如月瑠璃の存在に関しては、常軌を逸した解釈と崇拝を寄せている『ひどく手のかかるシステムのバグ』のような存在であった。

 これまで月見坂市で起きた事件において、瑠璃がたまたま見つけた不純物のルーツを完璧な物理的ロジックで解き明かした結果、警察の捜査が劇的に進展し、凶悪犯が逮捕されたことが幾度もあった。それを見た神宮寺は、あろうことか『如月コンツェルンの令嬢である瑠璃は、警察の力の及ばない巨悪を討つため、その類まれなる天才的な知能を『正義』のために振るってくれているのだ』という、極めて身勝手で壮大な妄想を抱き、彼女を一種の救世主として神格化してしまっていたのである。

 瑠璃にとって、これほど不愉快で、かつ非論理的な誤解はない。

 彼女の行動原理は、最初から最後まで『モノのルーツを探ること』という純粋な知的好奇心のみに集約されている。モノがどこで作られ、どのような物理的法則に従って誰の手に渡り、なぜ今ここにあるのか。その物理的な軌跡を冷徹に観測することがすべてであり、他者の感情に共感することもなければ、悲劇の被害者を救済したいという人間的な義侠心なども一ミリも持ち合わせてはいない。

 事件が解決し、犯人が逮捕され、関わった人間が結果的に救済されることなど、瑠璃にとっては鑑定の過程で生じた単なる『副産物』にすぎないのだ。それにもかかわらず、『正義』などという人間の主観によってどうとでも都合よく変容するひどく曖昧な情動の言葉で自らの行動を定義づけようとする神宮寺の存在は、瑠璃にとってただただ鬱陶しい環境音でしかなかった。普段であれば、彼女のそばには『朔光太郎』というちょうどいい愚鈍さを持った助手が控えており、彼が神宮寺の暑苦しい相手を──半ば神宮寺から理不尽な嫉妬を向けられながらも──引き受けて防波堤となってくれるのだが、あいにく今は自由行動中であり、サクタロウは不在であった。


「お、おお……! その冷たいお言葉、そして私のような愚か者を心の底から蔑むような視線! まさに瑠璃様! 申し訳ございません、私としたことが、瑠璃様の尊いお姿を拝見してつい感情が先走ってしまい……!」


「おい、神宮寺。お前、頭湧いてんのか」


 恍惚とした表情を浮かべて拝み倒さんばかりの神宮寺の首根っこを、瀬田が後ろから乱暴に掴んで力任せに引きずり戻した。

 瀬田はタバコの灰を床の埃の上に無造作に落とすと、鋭い三白眼で瑠璃を上から下まで、まるで値踏みでもするように舐め回すように観察した。豪華な紫の矢絣の着物、汚れ一つない純白のレースの手袋、そして帯の間に鈍く光る銀の懐中時計。

 瀬田もまた、瑠璃の持つ異常なまでの観察眼と、警察の鑑識を遥かに凌駕する天才的な鑑定能力を、過去の事件を通して肌で知っている男の一人であった。しかし、神宮寺のような盲目的な崇拝者ではない。彼はあくまで現場を這いつくばる警察官としての泥臭い矜持を持っており、いかに天才であろうと、民間人の未成年が凄惨な殺人現場に介入し、捜査を掻き回すことを極度に嫌悪していた。


「またお前か、如月のお嬢ちゃん。月見坂ならともかく、こんな遠く離れた咲浜市にまでしゃしゃり出てくるとはな。相変わらず、厄介事の匂いを嗅ぎつける鼻だけはウチの優秀な警察犬より上らしい」


 瀬田は鼻で笑い、タバコの煙を瑠璃の顔に向けて細く吐き出した。


「だがな、お嬢ちゃん。ここは警察の管轄だ。親がどれだけ偉かろうが、お前さんの頭がどれだけ切れようが関係ねえ。民間人のガキが首を突っ込んでいいような生易しい状況じゃねえんだよ。ここはガキの遊び場じゃねえ、おとなしく同級生とクレープでも食ってすっこんでな」


「瀬田先輩! 瑠璃様に向かってそのような無礼な口の利き方は――!」


「黙ってろ神宮寺! 俺たちは今、遠足の警備をしてるんじゃねえんだぞ!」


 瀬田のハードボイルドで冷徹な一喝が、踊り場に響き渡る。

 通常の女子高生であれば、このベテラン刑事特有の威圧感に怯え、泣き出し、早々に退散する場面であろう。しかし、如月瑠璃の心には、恐怖も、そして瀬田の無礼な態度に対する怒りすらも微塵も湧き上がらなかった。

 彼女の脳は、他人の感情的な言葉の裏にある『情報の欠片』だけを自動的に抽出し、猛烈な速度で処理を始めていたのである。


(ふむ……。所轄の咲浜市警ではなく、わざわざ月見坂市警の刑事であるこやつらが、管轄外のこの街の、こんな目立たない時計塔の中間層まで『捜査』にやってきている。そして、瀬田の靴底の異常な減り具合、神宮寺のスーツに染み付いた石炭の微かな匂い、二人の目元の深い隈。彼らは今日たまたまこの街にやって来たのではなく、数日前からこの咲浜市に滞在し、文字通り足で稼ぐローラー作戦を行っているようじゃな)


 瑠璃は純白の手袋をはめた両手を胸の前で優雅に組むと、深い紫の瞳で瀬田を真っ直ぐに見据えた。


「ガキの遊び場ではない、か。……奇遇じゃな、番犬。わしも全く同じことを考えておったところじゃ。この大正の幻影で美しく飾られた薄っぺらいテーマパークの裏側で、随分と『血生臭い出し物』が催されているようじゃのう?」


「……なんだと?」


 瀬田の眉がピクリと動いた。単なる金持ちの世間知らずの小娘だと思っていた相手の口から出た『血生臭い』という極めて物騒な単語に、ベテラン刑事としての勘が鋭く反応したのである。


「瑠、瑠璃様……! なぜ、それを……!」


 神宮寺が驚愕に目を見開く。その過剰な反応だけで、瑠璃にとっては十分すぎる答え合わせであった。


「お主は相変わらず顔に出やすい、単純で底の浅い構造をしておるな。……わざわざ他管轄の刑事が動員され、このような油と鉄の匂いがこびりつく暗がりにまで鼻を突っ込んでいる理由など、論理的に考えれば一つしかないじゃろう。この咲浜市で、所轄の警察の手に負えない凶悪事件が連続して発生しておる。それも、ただの窃盗や単発の傷害事件ではない。お主らが過剰なまでに神経を尖らせ、管轄の壁を越えてまで追わねばならないほどの、異常な事態がな」


 瑠璃は一歩、瀬田たちに向かって歩み寄った。

 その堂々たる立ち振る舞いと、あまりにも的を射た推測に、瀬田は無意識のうちに後ずさりしそうになるのを必死に堪えた。


「おい神宮寺、まさかお前、こいつに何か事件の情報を漏らしたんじゃねえだろうな!」


「滅相もございません! 私が瑠璃様にそのような警察の機密を漏らすはずが……しかし、さすがは瑠璃様! 現場の空気と私たちの様子を見ただけで、そこまでの真実を見抜かれるとは……やはり瑠璃様は、この事件の被害者たちを救済するために、天が遣わした正義の――」


「うるせえバカ! だから黙ってろって言ってんだ!」


 瀬田は激しく舌打ちをし、イライラと無精髭の生えた頭を掻きむしった。

 この天才的な頭脳を持つ小娘を前にして、下手な誤魔化しは一切通用しないことを瀬田は過去の苦い経験から知っていた。ここで頭ごなしに追い払おうとしても、彼女は必ず独自の手段で事件の核心に迫ってくる。ならばいっそ、事件の異様さと危険性をありのままに突きつけることで、恐怖心を煽り、自ら手を引かせる方が得策であると瀬田は判断した。


「……チッ。まあいい、どうせニュースになって世間に知れ渡るのも時間の問題だ。だがな、お嬢ちゃん。ちょっとばかり頭が回るからって調子に乗るなよ。俺たちが追ってるのは、お前さんが今まで相手にしてきたような、そこら辺のチンピラや突発的な殺人鬼じゃねえんだよ」


 瀬田はタバコを携帯灰皿に乱暴に押し込むと、その充血した三白眼をさらに険しくして、瑠璃を威圧するように極めて低い声で語り始めた。


「お嬢ちゃんは、二週間前からこの咲浜市で起きている『連続神隠し事件』の噂を聞いたことがねえか?」


「神隠し、じゃと?」


 瑠璃は小馬鹿にするように鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。物理法則を完全に無視した超常現象など、この世には存在せぬ。質量を持った物体が空間から忽然と消失するなど、質量保存の法則に反する。……どうせ、警察の無能な目が節穴で、犯人の用意した『物理的な運搬ルート』を見落としているだけじゃろう」


「言葉には気をつけろよ、お嬢ちゃん」


 瀬田はギリッと奥歯を噛み締めた。警察組織の長年の捜査とプライドをずたずたに引き裂く瑠璃の冷酷なロジックに、彼は苛立ちを隠せない。


「いいか、俺たちが追ってるのは、文字通りの『異常なシリアルキラー』だ。最初の事件は二週間前、このミュージアム街の外れにある旧市街の路地裏で起きた。被害者は、観光に来ていた山崎(やまさき)雄一(ゆういち)という六十三歳の親父と、その娘の由美子(ゆみこ)だ。親父の雄一の方は、刃物のようなもので何度も滅多刺しにされて重傷を負って倒れていた。だが、一緒にいたはずの娘の由美子は、忽然と姿を消した」


「……ほう」


 瑠璃は無言で純白の手袋の指先を見つめながら、脳内の記憶領域にその情報を正確にファイリングしていく。


「最初はただの身代金目的の誘拐事件か、あるいは何らかの怨恨かと思われた。だが、それから数日おきに、同じような事件が立て続けに三件も発生したんだ。第二の事件は、夜のガス燈の通りを歩いていた若いカップル。第三の事件は、路面電車の待ち合い所にいた学生の男女。そして昨夜発生した第四の事件は、この時計塔の裏の路地を歩いていた夫婦だ」


 瀬田の語る事件の概要は、確かに一般の警察官の想像力を超える、極めて特異なパターンを有していた。


「狙われるのは、必ず『男女のペア』だ。そしてどの現場でも、男の方は大量の血を流して倒れているか、あるいはすでに死んでいる。だが、一緒にいたはずの女の方は――昨夜の夫婦の場合は二人ともだが――まるで煙のように、痕跡一つ残さずに消え失せちまうんだ」


 瀬田は自身のトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、ひどく暗い顔で床を見つめた。


「現場にはおびただしい量の血痕が残されている。だが、犯人の足跡も、被害者を引きずって逃げた痕跡も、防犯カメラの映像すらも一切存在しない。現場は常に、誰の目にも触れない死角……一種の密室状態だ。そして犯人は、力のある若い男を無音で制圧し、女を抱えて、まるで幽霊のように壁をすり抜けて消えていく。だから『神隠し』と呼ばれてるんだよ。プロの鑑識がどれだけ調べても、逃走ルートはおろか、犯人の指紋一つ出てこねえ」


「……お分かりいただけたでしょうか、瑠璃様。だからこそ、瑠璃様にはこんな危険な場所をうろついていただきたくないのです!」


 神宮寺が、懇願するように瑠璃に一歩近づいた。


「犯人は、幸せそうな男女のペアを憎悪し、執拗に狙う、極めて異常な性癖を持ったシリアルキラーに違いありません! 犯行のスピード、痕跡のなさ、すべてが常軌を逸しています。私たちは今、この時計塔の周辺が次のターゲットの狩場になるかもしれないと予測し、警戒に当たっていたのです。ですから、どうか瑠璃様は安全な中央広場へとお戻りください。この猟奇的な悪は、必ず我々警察の手で裁いてみせます!」


 神宮寺の悲痛な叫びと、正義感に燃える眼差し。そして瀬田の苛立ちと疲労。

 彼らの語る事件の全貌を聞き終えた瑠璃は、ゆっくりと目を閉じ、そして、ひどく出来の悪い三流の喜劇を見せられた観客のような目で、深く、深くため息をついた。


「お主ら、本気でそれを信じて捜査しておるのか? その程度の薄っぺらい推論で、よくもまあ国民の税金から給料がもらえるものじゃな」


「なんだと……!?」


 瀬田が激昂し、神宮寺がオロオロと二人の間に入る。

 しかし、瑠璃は彼らの怒りなど微塵も意に介さず、完璧な冷笑を浮かべたまま言葉を続けた。


「『異常な性癖を持ったシリアルキラー』じゃと? 『幽霊のようにすり抜ける神隠し』じゃと? ……笑わせるな。お主らの脳髄は、三文小説の読みすぎで完全に腐り落ちておるのではないか?」


「お嬢ちゃん、それ以上言ったら、いくら未成年でも公務執行妨害でしょっ引くぞ!」


「黙っておれ、愚鈍な猟犬ども」


 瑠璃の絶対的な威圧感と、周囲の空気を凍りつかせるような知性の輝きが、瀬田の言葉を強制的に遮断する。

 彼女の脳内では、名探偵が灰色の脳細胞をフル回転させて警察の凡庸な盲点を突くように、完璧な論理の再構築がすでに完了していた。

 現場を這いつくばり、足で稼ぐ警察の視点。そして、事象のルーツのみを物理的に俯瞰する探偵の視点。その間には、果てしなく深く、そして決定的な『ズレ』が存在していたのである。


(瀬田たちが一生懸命に追いかけているのは、『連続男女ペア襲撃事件』という表面的なパターン……すなわち『森』じゃ)


 瑠璃は、自身の背後にある飾り棚の裏――つい先ほど自らの手で暴き出したばかりの、黒褐色の染みを思い描く。

 警察のプロファイリングは、犯人が『男女のペアを憎む異常者』であるという強固な前提に囚われすぎている。だからこそ、現場の共通点や、被害者の属性、異常な犯行手口といった『マクロな情報』ばかりを追いかけ、防犯カメラや目撃証言といった人間的なネットワークに依存した、無意味な捜査を行っているのだ。

 しかし、瑠璃の視点は全く異なる。彼女の『物理的観察眼』が捉えているのは、森全体ではない。その森の中に無造作に落ちている、極めて異質で、不純な『たった一枚の木の葉』であった。


(神隠しなど存在しない。力のある若い男を無音で一瞬にして制圧し、重い死体や被害者を痕跡一つ残さずに運び去る。……そんなことが人間の腕力で可能であるはずがない。もしそれが物理的に可能であるとすれば、答えは一つ。犯人は『人間の腕力』など最初から使っていないのじゃ)


 瑠璃の脳裏に、先ほど飾り棚の裏で至近距離から嗅いだ、あの二つの強烈な異臭がフラッシュバックする。

 極度の高温と高圧に耐えうる、地下の旧式ボイラー専用の高粘度防錆油。

 そして、大量の新鮮な人間の血液。

 この二つが完全に混ざり合った状態で、この時計塔の踊り場に存在していたという揺るぎない物理的な事実。それが意味することは、警察が必死に描いている神出鬼没な犯人像を、根底から粉砕するものであった。


(犯人は、幽霊でもなければ、異常な性癖を持ったシリアルキラーでもない。この咲浜市の構造を熟知し、地下深くに張り巡らされた巨大な『蒸気機関と歯車』という圧倒的な物理インフラを、自らの犯罪のツールとして利用している、極めて現実的で、機械的な計算高さを持った人間じゃ)


 地下の油にまみれた犯人が、この時計塔の裏口や階段を利用して地上に現れ、何らかの『物理的なからくり』を用いて被害者を一瞬で制圧し、そして再び地下の迷宮へと被害者を『運搬』している。

 だからこそ、地上には足跡が途絶え、防犯カメラにも映らず、まるで神隠しのように消失したように見えるのだ。

 すべては、ファンタジーでも魔法でもない。蒸気と歯車という、力任せで巨大な物理現象の悪用によって、完璧な密室と消失トリックが構築されているに過ぎない。


(そして……第二、第三、第四の事件が『男女のペア』を狙ったものであるというパターン。これもまた、極めて不自然じゃ。……『木の葉を隠すなら森の中』。犯人は、自らの真の目的を隠蔽するために、わざと目立つ派手な法則性を作り出し、警察の目を『異常なシリアルキラー』という虚像へと向けさせているのじゃ。真の目的は……間違いなく、最もパターンから外れている、第一の事件。父親と娘という『家族』のペアが狙われた、あの最初の事件にこそ、すべてのルーツが隠されている)


 そこまで思考を巡らせた瑠璃は、クスリ、と冷たく美しい笑みを漏らした。

 警察は完全に盲点に陥っている。彼らは存在しない森の幻影に怯え、虚空を掴もうと必死に駆け回っているのだ。目の前にある、血と油という最も雄弁で確実な『物理的ルーツ』が、この時計塔の飾り棚の裏に残されていることにも気づかずに。

 それを丁寧に教えてやる義理など、瑠璃には一ミリも存在しなかった。彼らを助けることなど、彼女の目的ではない。


「……なるほど。警察の苦労はよく分かった。せいぜい、存在しない幽霊の尻尾を追いかけて、泥だらけになって街中を走り回るがよい」


 瑠璃のその言葉には、一切の同情も、協力の意志も含まれていなかった。ただ、真実に気づけない者たちへの冷酷な事実の突きつけだけが、踊り場の空間に静かに響き渡った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ