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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『交錯』(2)

 巨大な時計塔の内部構造は、一種の巨大な煙突のような気流を生み出している。下層から上層へと、巨大な歯車の回転と蒸気機関の排熱に伴って、常に微弱な上昇気流が発生していた。その気流に乗って、瑠璃の極めて鋭敏な嗅覚器官へと到達した『異変』の正体。それは、大正ロマンの美しい街並みや、観光客の喧騒、あるいは思春期の少女が残した甘いクレープの残り香とは、根本的に次元を異にする種類のノイズであった。

 瑠璃は深く息を吸い込むことを止め、小鼻をわずかに動かして、空間に漂う微細な分子の構造を脳内で解析し始める。

 人間の嗅覚というのはひどく曖昧で、強い匂いや直近に嗅いだ匂いに容易に上書きされてしまう脆弱な器官である。しかし、孤高の天才鑑定士である如月瑠璃の脳内処理機構は、常人のそれとは比較にならないほどの高度なフィルタリング機能を有していた。彼女はまず、空気中に最も多く含まれている『クレープの焼けた小麦粉とバターの甘い匂い』を意図的にミュートする。次に、放置されたコードレスヘアアイロンのプラスチック外装とセラミックプレートが発している『微かな焦げ臭さ』と『人工的な熱の匂い』を除外する。さらには、時計塔の真鍮製の歯車が擦れ合う無機質な金属臭、そして遠くから漂ってくる石炭の燃焼臭すらも、次々と認識の外へと弾き出していく。

 そうして不要な情報をすべて削ぎ落とし、純化された思考の果てに、ただ一つだけ残った極微量の分子。

 それは、ひどく重く、粘り気があり、同時に有機的な腐敗を予感させるような、極めて不吉な悪臭であった。


(気のせいではないな。この匂いの発生源は、間違いなくあの不純物のすぐ側じゃ)


 瑠璃は一切の躊躇なく踵を返し、再び飾り棚の裏の暗がりへと滑るように歩み寄った。深い紫の矢絣の着物と海老茶色の袴が、踊り場に差し込むガス燈の淡い光を受けて、優雅な陰影を描き出す。

 先ほどまでの『答え合わせを終えた後の退屈』は、彼女の双眸から完全に消え失せていた。代わりに宿っているのは、未知のルーツに対する純粋な知的好奇心と、世界を一枚のプレパラートの上に置いて解剖してやろうという、圧倒的なまでの知の傲慢さである。

 瑠璃は再び身を屈めると、飾り棚の裏の狭い空間を凝視した。

 彼女の意識は、視覚情報よりも先に、自らの『右手の人差し指と親指』の先端――純白のレースの手袋に包まれた、そのごく狭い一点の触覚神経の記憶へと向けられていた。

 先ほど、クレープ生地の乾燥状態と温度を確かめるために、手袋越しの指先でほんの僅かに生地の端をつまみ上げた時の、あの何気ない触感。その記憶の残滓が、瑠璃の脳内に構築されている『物理法則と物質特性のデータベース』と照合された結果、到底看過できない致命的な矛盾を引き起こしていたのである。


(……思い返せば、おかしい。何かが決定的に狂っておる)


 瑠璃は右手を目の前の高さに掲げ、手袋の指先を鋭い眼光で見つめた。

 純白のレースには、クレープの油分も焦げ跡も、一切の汚れは付着していない。しかし、神経の末端が記憶している『物理的な抵抗感』が、先ほど自らが導き出した演繹的推理の前提を根底から揺るがしていた。

 クレープ生地の表面は、空気中の乾燥によって水気が飛び、硬化し始めていた。それは揺るぎない事実である。しかし、瑠璃が指先で触れた生地の『裏側』――木製のアンティーク飾り棚の板面に直接触れ、ヘアアイロンの重みで押し付けられていた部分の硬化の仕方は、単なる水分の揮発によるものでは絶対にあり得なかったのだ。


(乾燥による自然な硬化ならば、生地の端は水分を失って反り返り、パリパリとした乾いた脆さを持つはず。だが、先ほどのあの感触は根本的に違う。まるで生地の裏側に、何らかの『外部からの不純な化学物質』が深く浸透し、それがヘアアイロンの熱によって強制的に凝固、あるいは重合結合させられたような……極めて不自然で、強力な粘り気を伴う剛性があった)


 ただの女子高生の隠し事という、他愛のない日常のルーツ。

 その薄皮一枚を隔てたすぐ裏側に、決して見過ごしてはならない異常なノイズがへばりついている。モノのルーツを探求する者としての絶対的な本能が、瑠璃の脳髄を直接揺さぶっていた。

 瑠璃は直接手袋で触れることを意図的に避け、着物の袂から常に持ち歩いている純銀製のアンティークの匙を取り出した。精緻な細工が施されたその柄の先端を、外科手術のメスのごとく正確かつ繊細に操り、丸まったクレープ生地の端にそっと差し込む。そして、内容物のヘアアイロンが滑り落ちないよう絶妙な力加減を保ちながら、生地の裏側が完全に見える角度へと静かにひっくり返した。

 同時に、空いた左手で懐から銀の使い込まれたルーペを取り出し、アメジストの瞳の前に構える。ガス燈の揺らめく光と、ルーペの分厚く透明なレンズが交差した瞬間、瑠璃の視界に『それ』は極めて残酷なほどの解像度で映し出された。


(なるほど。わしの指先の感覚は、世界で最も正確なセンサーというわけじゃな)


 瑠璃の形の良い唇から、感嘆とも冷笑ともつかない微かな吐息が漏れた。

 ひっくり返されたクレープ生地の裏側。そこには、ただの小麦粉が鉄板で焼かれた際にできる褐色の焼き目とは明らかに異なる、不気味で毒々しい『黒褐色の染み』が、べっとりと広範囲に付着し、アイロンの熱によってカチカチに硬化していたのである。

 染みは不規則な形状を描いており、生地の繊維の奥深くにまで浸透してから凝固した痕跡が見て取れた。

 さらに瑠璃は、クレープが押し付けられていた『飾り棚の木材の表面』へと、ルーペの焦点をゆっくりとスライドさせた。

 そこにも同じように、黒褐色の不気味な染みが、まるで何かが乱暴に擦り付けられ、引きずられたような不規則な形状でこびりついていた。木材の導管に沿って染み込んだその液体は、表面で固まり、ガス燈の光を鈍く反射している。


(この染みは、180度のヘアアイロンのセラミックプレートが直接木材を焦がしたものではない。もしそうなら、セルロースが分解された明らかな炭化の痕跡が残るはずじゃ。……これは明らかに『化学反応』の痕跡。飾り棚のこの暗がりの空間には、元々、常温では無色透明に近く、肉眼では容易に判別できない『何らかの液体』が大量に付着しておったのじゃ)


 瑠璃の脳内で、化学式と熱力学の複雑なパズルが、巨大な歯車のように凄まじい速度で組み上がっていく。

 木材にべっとりと付着していた、透明な液体。そこに、見回りの教師から逃れるためにパニックに陥った女子生徒が、『180度に熱せられたヘアアイロン』を、クレープ生地という不格好な断熱材ごと無造作に押し付けた。

 その結果、アイロンのプレートが放つ圧倒的な余熱──電源を切った直後でも約80度前後は保たれている──が、液体の成分を急激に気化、あるいは酸化させ、一部を熱変成させて黒褐色の染みとして定着・顕現させたのだ。

 すなわち、『熱』という女子生徒が持ち込んだ偶然の触媒が、この暗がりに隠されていた恐るべき不純物を、強制的に焙り出したのである。


(では、この不純物の正体は何じゃ? 咲浜市の観光客がうっかり零した甘いジュースの跡か? それとも、時計塔の清掃員が塗りすぎた床用のワックスか? ……いや、どれも違う)


 瑠璃は銀の匙の先端で、硬化した黒褐色の染みの表面を、カリッと軽く削り取った。

 そして、その匙の先端に付着した微小な削りカスに顔を近づけ、自身の並外れた嗅覚を全開にして、先ほど遠くから感知した異臭の根源的な正体を、ダイレクトに読み取っていく。

 ノイズを削ぎ落とし、純化していく思考の果て。最後に残った、極めて微量だが、圧倒的な異物感と存在感を放つ『二つの異臭』。

 それを至近距離で感知した瞬間、瑠璃の深い紫の瞳が、絶対零度の氷のように冷たく、そして剃刀のように鋭く研ぎ澄まされた。


(間違いない。一つ目の匂いは『油』じゃ。それも、この大正ロマンの街の地上を走る乗合自動車のエンジンオイルや、この時計塔の中間層にある歯車に差すような、精製度の高い軽快な潤滑油ではない。高濃度の硫黄と極圧添加剤の亜鉛化合物が発する、鼻腔の奥を突き刺すような独特の刺激臭。そして、匙の先端から伝わってくる、削り取った際のこの異常な粘度と、強固な油膜の形成力)


 如月コンツェルンの令嬢として、あらゆる産業インフラの構造と物資の流通ルーツを、現場の技術者以上に熟知している瑠璃にとって、その匂いが示す答えは極めて限定的であり、明白であった。


(これは、極度の高温と高圧、そして酸性の蒸気に晒される過酷な密閉環境下においてのみ使用される、防食・防錆に特化した『高粘度工業用油』。……すなわち、この咲浜市の地下深くに広大な迷宮のように埋設され、街全体の莫大な動力を生み出している『旧式ボイラーの動力区画』でしか絶対に使用されない、特殊な専用防錆油じゃ)


 咲浜市のミュージアム街は、表層こそ優雅な大正ロマンを気取っているが、その実態は莫大な石炭と蒸気を消費する巨大なプラントである。地下の旧式ボイラー区画は、一般の観光客はもちろん、通常の清掃員すら立ち入ることが厳しく制限された、熟練の専属機関士のみが管理する閉鎖空間である。

 なぜ、そのような地下深くの特殊な工業用油が、観光客が頻繁に往来する地上三階の時計塔の飾り棚の裏に付着しているのか。

 その強烈な矛盾に対する答えを待たずして、瑠璃の嗅覚は、さらに奥底に潜む『二つ目の異臭』を的確に捉え、脳へと伝達していた。

 重く粘り気のある特殊油の匂いの奥底に、ひっそりと、しかし生々しくへばりついている匂い。

 それは、瑠璃がこれまでの十六年の人生で幾度となく嗅ぎ分け、そしてその凄惨なルーツを暴いてきた、最も原始的で、最も暴力的な物質の匂いであった。


(鉄の匂い。しかし、この時計塔を構成する真鍮や、古い配管の錆が発する酸化鉄の無機質な匂いとは根本的に異なる。これは、細胞から流出したばかりの生々しい鉄分。タンパク質と強固に結合したヘモグロビンが、アイロンの高熱によって急激に酸化し、細胞組織ごと破壊・変成されたことによって放たれる、極めて有機的な悪臭。……『人間の血液』の匂いじゃ)


 地下専用の高粘度防錆油と、人間の血液。

 決して交わるはずのない二つの異質な物質が、完全に混ざり合った状態でこの飾り棚の裏に付着していた。

 ルーペ越しの視界が、一瞬にしてその意味を反転させ、日常の風景を地獄の絵図へと変容させる。

 これは、誰かが階段で転んでうっかり怪我をし、手をついて擦り付けたような生易しいものではない。大量の油と血が混ざり合う状況など、通常の生活においては絶対に発生しない。地下の特殊な油に全身まみれ、かつ、滴るほどの大量の鮮血を帯びた『何者か』が、この時計塔の踊り場に確実に存在していたという、決定的な物理的証拠であった。

 さらに言えば、この血の量は尋常ではない。木材の導管にまで深く浸透しているということは、液体が霧状に付着したのではなく、べっとりと、あるいはどくどくと流れ出るような状態で、この飾り棚の裏に擦り付けられたことを意味している。


 瑠璃はゆっくりと立ち上がり、冷徹な思考の深海へとさらに深く潜行していく。

 『女子生徒の日常』と『血と油の痕跡』。二つの全く無関係な軌跡が、彼女の脳内で一つの完璧な時間軸として統合されていく。


(女子生徒が、明宮の足音に怯えてこの飾り棚の裏にヘアアイロンを隠したのは、今から約五分前の出来事。……アイロンの熱が、この油と血を瞬時に気化させ、黒褐色に変色させたということは……女子生徒がアイロンを押し付けたその瞬間、この油と血は完全に乾燥しておらず、まだ生々しく『濡れていた』ということになる。血液が凝固し、乾燥するまでの時間を考慮すれば、タイムラグは限りなくゼロに近い)


 その物理的事実が導き出す結論は、あまりにも異常で、そして背筋が凍るほど恐ろしいものであった。


(女子生徒がアイロンを隠す、ほんの数十秒から数分前。……まさにこの場所に、地下の油と大量の血にまみれた『何者か』が息を潜めて潜んでいた。あるいは、何か凶悪な罠を仕掛け、証拠を隠滅するためにこの壁に触れたばかりだったのじゃ)


 もし、女子生徒が鏡を見るためにもう一分早くこの踊り場に到着していれば。

 もし、明宮の足音がもう少し遅く、女子生徒が慌てて上層へと逃げ出さずにその場に留まっていれば。

 彼女は間違いなく、血と油に塗れたその『異常な存在』と正面から鉢合わせていたはずなのだ。女子生徒は、自らが凄惨な暴力のすぐ隣に立っていたことなど微塵も気づかず、ただ前髪のセットと教師への言い訳だけを気にして、日常へと帰っていったのである。


 表層の世界では、大正ロマンの美しい衣装に身を包んだ無邪気な学生たちや観光客が、クレープを食べながら、美しい蒸気と歯車の街を満喫している。平和で、滑稽で、無価値なほどに輝かしい日常。

 しかし、その薄皮をたった一枚剥がしたすぐ裏側の、文字通り目と鼻の先には、おびただしい血と油に塗れ、狂気と暴力が渦巻く凄惨な世界が、音もなく、すぐ隣を並走していたのである。

 それはまるで、有名な著書『パノラマ島奇談』の世界そのものであった。一見して美しく精巧に設計されたユートピアの裏側に、血生臭い肉塊と狂気のからくりが巧妙に隠されているように。咲浜市のスチームパンクという無邪気な歴史のテーマパークは、その地下に、とてつもない暗黒を抱え込んでいたのだ。

 人間の認識能力の限界と、世界というものが持つ恐ろしいまでのグロテスクな二面性。

 その圧倒的なまでの『乖離』を前にして、瑠璃の胸の奥底で、純粋な知的好奇心の炎が青白く、静かに燃え上がった。


(素晴らしい。実に美しく、そして醜悪なルーツじゃ)


 瑠璃の深い紫の瞳には、正義感も、未知の殺人鬼に対する恐怖も、傷ついたかもしれない被害者への同情や共感も、一切存在していなかった。

 他者の痛みや苦しみといった情動など、彼女にとっては観測の精度を鈍らせる無価値なノイズでしかない。血を流した人間が誰であろうと、彼女には関係のないことだ。彼女を突き動かすのは、ただ『結果』が存在する以上、それを生み出した『原因』を論理の力で完全に丸裸にしてやろうという、天才ゆえの圧倒的な知の傲慢さであった。


「女子生徒の他愛のない見栄が、図らずも猟奇的な犯罪者の足跡を熱で焙り出した。……偶然とはいえ、これほど皮肉で美しい交差点はそうそう拝めるものではないな」


 瑠璃は純白の手袋についた目に見えない穢れを払うように両手を軽く合わせると、一切の感情を排した無機質な動作で、銀のルーペとアンティークの匙をポケットへとしまった。

 もはや、クレープとヘアアイロンという日常の遺留品に用はない。彼女の眼光は、血と油の匂いが微かに続く、階下――すなわち、一般人の立ち入りが厳しく禁じられている、旧式ボイラーの地下区画へと続く暗い階段の先へと向けられていた。

 大正の幻影を纏った優雅な令嬢が、その冷徹な論理の刃を抜き放ち、蒸気の密室に潜む狂気へと足を踏み入れようとした、その時であった。



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