第4話『証明』(3)
クレープに包まれたヘアアイロンと、防錆油。
その二つが引き起こした熱力学的な化学反応という、あまりにも残酷で美しい物理的証明を突きつけられ、山崎昭一の『善良な第一発見者』というアリバイは完全に粉砕された。
五十度を超える機関室の暴力的な熱気の中にあって、彼の顔面だけは死人のように青ざめ、右手に握られた鋼鉄のモンキーレンチは、カタカタと情けない音を立てて震え続けている。
「……ち、違う。違う違う違う違うッ!」
数秒の完全な沈黙の後。昭一は、自らの崩壊しゆく精神を無理やり繋ぎ止めるように、振り絞るような絶叫を上げた。
「アイロンだか化学反応だか知らないが、そんなものはただの屁理屈だ! 百歩譲って、私がその時間に時計塔にいたとして、それがなんだ! 私が『連続神隠し事件』の犯人だという証明にはならないだろうが!」
彼は血走った目を剥き出しにし、銃を構えたままの瀬田警部補たちへと視線を向けた。
「警察のあんたたちならわかるだろう!? 犯人は、大人の男女二人を、防犯カメラの死角で一瞬にして消し去ったんだ! 足跡一つ、引きずった痕跡一つ残さずに、百キロを超える大人二人を跡形もなく運び去るなんて、普通の人間……ましてや六十近い私にできるわけがない! あんたたち警察が一番よく知っているはずだ、あれは神出鬼没の、異常な怪力を持った連続殺人鬼の仕業だと!」
それは、自らが作り上げた『怪物』の虚像への、あまりにも滑稽で惨めな逃避だった。
自分がそんな大層な犯罪を実行できるはずがない。自分は平凡な男だ。だから、あの恐ろしい犯罪は、警察が恐れている架空のシリアルキラーがやったことに違いないのだと、本気で自分自身に言い聞かせようとしているのだ。
瀬田警部補もまた、その点に関しては完全に納得できているわけではなかった。
「確かに、如月のお嬢ちゃん。こいつが現場にいた証明にはなっても、あの『神隠し』の実行犯だというには、あまりにも腕力が足りなすぎる。現場には、複数犯の痕跡も、被害者を運び出した痕跡も一切なかったんだぞ」
警察のベテラン刑事と、追い詰められた小悪党。
二人がすがりつく『異常な連続殺人鬼』という森の幻影に対し、如月瑠璃は心底退屈そうに、ふぁぁ、と小さく欠伸をした。
「腕力が足りぬ? 痕跡がない? 愚鈍な番犬と、知性を放棄した小悪党が揃うと、ここまで事象のルーツが歪むものか」
瑠璃は、純白の手袋で口元を覆いながら、哀れみすらこもった冷ややかな視線を昭一に向けた。
「いいか、愚か者。密室から人間が消失した現場に、犯人の足跡も、引きずった痕跡も、腕力を使った形跡も残されていない。……それはお主が超能力者だからでも、異常な怪力を持つ怪物だからでもない。答えは極めて単純な物理法則じゃ」
彼女は一歩前に踏み出し、昭一を真っ直ぐに指差した。
「お主が、人間の『腕力』など、最初から一ミリも使っていなかったからに過ぎぬのじゃよ」
「腕力を使っていない……だと?」
「サクタロウ。……あの愚かな警察と、自らを怪物だと勘違いしている凡庸な男に、事象の真理を翻訳してやるのじゃ」
如月さんからのパスを受け、僕は火傷の痛む手をギュッと握り締めて、一歩前へと進み出た。
あの時、死の熱波が迫るメンテナンス通路の中で、如月さんが僕に見せてくれた物理のルーツ。それを言語化し、この場にいる全員の脳裏に叩き込むのが『助手』の役目だ。
「瀬田警部補。この咲浜市の地下には、旧式ボイラーの灰や石炭を運搬するための、巨大なレールと『滑車』のネットワークが、天井の裏側に網の目のように張り巡らされているんです。……そして、各所のダストシュートの搬入口には、この地下を流れる超高圧の蒸気パイプを動力源とした、自動巻き上げ式の『蒸気圧ウインチ』が設置されている」
「蒸気圧、ウインチ……?」
瀬田警部補がハッと息を呑む。
「そうです。犯人は、自らの腕力なんかこれっぽっちも使っていない」
僕は、昭一の蒼白な顔を見据えながら、その卑劣な不可能犯罪のトリックを解体していった。
「時計塔の裏口のような、人目のつかないダストシュートの直上で、犯人は通りがかったカップルの背後から鈍器を振り下ろし、奇襲して意識を奪う。その後、倒れた被害者の衣服やベルトに、ウインチから伸びる太い鋼鉄の『ワイヤーのフック』を引っ掛けるんです。あとは……壁にある蒸気バルブを、ただひねるだけだ」
僕の言葉が、機関室の轟音の中で、恐ろしいほどのリアリティを持って映像化されていく。
「バルブが開かれれば、高圧蒸気がタービンを猛烈な勢いで回し、人間を遥かに凌駕する圧倒的な『力学エネルギー』がワイヤーを巻き上げる。被害者の身体は、床を一直線に引きずられながらダストシュートの穴へと吸い込まれ、地下のメンテナンス通路の奥深くへと強制的に運搬される」
瀬田警部補の目が、驚愕に見開かれた。
「だ、だから現場に犯人の足跡がなかったのか……! 犯人は被害者を抱え上げる必要すらなく、ただワイヤーを掛けて機械を動かしただけ。そして、一定の力で機械的に引っ張られるから、被害者の血の跡も、ブレのない不自然な一直線の『引きずり痕』になっていた……!」
「その通りです」
僕は頷いた。
「人間が引っ張れば、必ず息継ぎや歩幅による力学的なブレが生じ、血の跡は波打ちます。あの現場の異常に整った血痕は、怪物的な怪力の証明なんかじゃない。ただの『機械による一定の張力』の証明だったんです」
猟奇殺人鬼の異常な怪力でもなければ、密室から人間を消し去るマジックでもない。
ただの歯車と蒸気圧という、十九世紀から存在する純粋な物理法則の応用。
それが、警察を震え上がらせていた『連続神隠し事件』の、あまりにも無機質で、機械的なからくりの全貌だった。
「ひっ、あ、ああ……」
トリックを完全に暴かれた昭一は、カチカチと歯の根を鳴らし、操作パネルの計器に背中をこすりつけるようにして後退した。自分が作り上げた恐るべき『殺人鬼』という幻影が、高校生と小柄な少女によって、見事に論理の力で引き剥がされていく恐怖に耐えきれなかったのだ。
「理解できたか、愚か者」
如月瑠璃の氷のような声が、昭一の頭上から無慈悲に降り注いだ。
「猟奇殺人の怪力でもなければ、警察を嘲笑う華麗な奇術でもない。お主がやったのは、蒸気圧ウインチのフックを気を失った被害者に掛け、壁のバルブをひねっただけ。……この街のインフラを不正に利用しただけの、ただの非人道的な『工場作業』に過ぎぬ」
瑠璃の言葉は、ただ事象を解説するだけにとどまらず、昭一の心の奥底に隠されていた『犯罪者としてのいびつなプライド』を、粉々に叩き潰すための絶対的な否定だった。
「お主は、自らを神出鬼没の連続殺人鬼に見立て、警察が右往左往する様をこの地下から安全に眺めながら、さぞかし自分が恐ろしい支配者になったような優越感に浸っていたのじゃろう。だが、わしの眼から見れば、お主の犯罪には何の美学も、洗練された技術も存在せぬ」
瑠璃は、純白の手袋で自身の袴の裾を優雅に払いながら、彼を徹底的に見下した。
「己の腕力すら使わず、機械の力に頼り切った、卑小で怠惰なからくり。血を浴びるリスクすら負おうとしない、どこまでも臆病な小悪党の浅知恵よ。……お主が構築した連続殺人という『恐怖の劇場』など、このわしの前では、ただの設備の目的外使用という、極めて陳腐なレベルの事象でしかないのじゃ」
「あ、あああ……違う、私は……私はただ……!」
昭一の目から、ポロポロと無様な涙がこぼれ落ちた。
アリバイを熱力学で破壊され、恐怖のトリックをただの工場作業へと格下げされた。彼が必死に纏っていた『連続殺人鬼』という強大な装甲は、如月瑠璃という天才の論理によって完全に剥ぎ取られ、そこには、ただ怯えて震えるだけの、醜く凡庸な初老の男だけが残されていた。
警察の武力による制圧ではない。完全なる論理と知性による、一人の犯罪者のプライドと自我の『解体』。
これが、孤高の天才鑑定士・如月瑠璃の、真理という名の刃の切れ味だった。
物理的な証明は、これで完全に暴かれた。
残るはただ一つ。彼がなぜ、そこまでしてこの凡庸な偽装劇を演じなければならなかったのかという、人間の泥臭い欲にまみれた『動機』の暴露だけだ。




