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第96回 極北の藩

 私が北海道出身ということで、今回はこれについて取り上げます。


 松前《まつまえ》藩。


 江戸時代、日本全国に約260~270の藩があったそうですが、最も北に位置していたのが、この松前藩。


 松前藩の起こりは、室町時代に遡《さかのぼ》ります。

 諸説ありますが、若狭《わかさ》国(現在の福井県の一部)にいた、若狭武田氏の流れを汲む武田信広(のぶひろ)を祖とするとされています。若狭武田氏当主信賢(のぶかた)の子とされる武田信広が1451年(宝徳3年)に若狭から下北半島の蠣崎《かきざき》(現在のむつ市川内町)に移り、その後に蝦夷地《えぞち》(現在の北海道)に移住してその地を治める豪族になったと言われています。

 つまり、恐らく古くは甲斐武田氏と同族で、家紋は甲斐武田氏と同じく、武田菱と言われています。


 戦国時代、道南(北海道の南部、渡島《おしま》・檜山《ひやま》地方)では蝦夷代官だった津軽安東(あんどう)氏(現在の秋田県辺りを領有)の統制下にある和人の豪族が、それぞれ独立した道南十二館を築き、そこを拠点にアイヌと交易を行っていました。花沢館主だった蠣崎季繁(すえしげ)もその一人にすぎなかったのですが、1457年(長禄元年)、和人とのトラブルを契機としてアイヌのコシャマインを中心とする和人への武装闘争(=コシャマインの戦い)が発生すると、12館の内10の館がアイヌに落とされます。激戦の末、蠣崎季繁の客将であった信広が鎮圧し、後に信広が季繁の婿養子となり、蠣崎氏を継承して蠣崎信広を名乗り、拠点を勝山館に移します。


 以降、蠣崎義広の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、その子の蠣崎季広(すえひろ)の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げたと言われています。


 ただし、この辺りまではまだ蠣崎氏は、あくまでも安東氏の被官、つまり家来という扱いでした。


 季広の子の慶広《よしひろ》が、なかなか賢い人物だったらしく、最初は織田信長に接近、その後、豊臣秀吉に接近。蝦夷地一円及び松前を安堵され、1599年(慶長4年)に蠣崎から松前に改姓したと言われています。1600年(慶長5年)に松前において福山城を築城。1604年(慶長9年)に徳川家康から松前家の蝦夷地支配を認める黒印状が出されたとされています。


 実は、松前は海を通じて、京都と交易をしており、そこから中央の情報を得ていたとも言われており、その辺りが、慶広が時勢を読める契機になったとも言われています。事実、松前には京都の政変で敗れた貴族が流刑になっており、そこから京都の文化が入ったとも言われています。


 ともかくこれで名実共に、松前氏が蝦夷地の支配者となり、松前藩が成立。


 当時、蝦夷地では米が取れなかったので松前藩は無高(石高0)だったのですが、水産物や獣皮の交易、商人や漁師などからの徴税が主な藩の財政となっています。

 当時の蝦夷地では、場所請負制(うけおいせい)というのがあり、松前藩の藩士が蝦夷地での交易権や漁場経営を商人に丸ごと委任し、その見返りとして「運上金《うんじょうきん》」と呼ばれるお金を受け取っていたとされています。

 無高の松前家は当初は交代寄合(よりあい)として扱われていましたが、1719年(享保4年)になって1万石格が与えられています。江戸後期にロシア艦が北海道周辺に来航するようになったため、1799年(寛政11年)に東蝦夷地、ついで1807年(文化4年)に西蝦夷地も幕府の直轄領となり、一時的に陸奥《むつ》国(現在の福島県)梁川《やながわ》(現在の福島県伊達市梁川町)に移封されて9000石となっています。


 その後は、再度1万石格になり、幕末には3万石になっています。


 幕末には、藩主の松前崇広(たかひろ)が外様《とざま》大名ながら幕府の老中《ろうじゅう》に取り立てられています。この人事は彼が親しくしていた老中阿部正外の推薦とみられています。しかし兵庫開港問題をめぐって阿部とともに開港時期引き延ばしに反対して徳川慶喜(よしのぶ)と対立したことで、1865年(慶応元年)10月1日に老中を解任されて国許《くにもと》謹慎の処分を受け、蝦夷へ帰るとその翌年に急死。

 なお、崇広は武術や馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通だったと言われています。


 戊辰戦争で松前藩は官軍(新政府軍)に属して戦い、青森に兵を送っていたため、本拠の福山城が手薄になり、1868年(明治元年)11月に五稜郭を占拠した榎本武揚率いる旧・幕府残党(元・新撰組副長の土方歳三が率いる)の攻撃によって福山城は落城し、藩主の徳広《のひりろ》は熊石《くまいし》から海路で津軽に逃れて弘前で没しています。

 しかしその翌1869年(明治2年)に家督を継いだ修広《ながひろ》が、官軍とともに領地に渡って福山城を奪回することに成功しています。同年この戦功により政府から賞典禄2万石を下賜されました。


 1884年(明治17年)に華族令が施行されて華族が五爵制になると修広は旧・小藩知事として子爵に叙されています。またこれとは別に崇広の息子である松前隆広も1889年(明治22年)に分家華族として男爵に叙されています。


 なお、「松前」の名前の由来が、松平(=徳川の前身)と、前田から取ったと言われますが、それは俗説だという説が有力です。


 本拠地は福山というところにあり、現在残っている松前城は、その地に築かれましたが、幕末になって築かれた、割と新しい城で、旧式城郭としては異例と言える、砲台が三の丸に7つも置かれたそうです。城のほかにも、1851年(嘉永4年)以降、松前広休を奉行として海岸に砲台が16砲台、33門も築造されており、これは「海からやってくる敵を撃退する」という構想があったからだと言われており、ロシアの脅威にさらされる蝦夷地ならではの設計だったらしいですが、皮肉なことに旧・幕府軍が陸から攻めてきたため、あっさり陥落したと言われています。


 また、正式名称は「福山城」が正しいらしいですが、備後(びんご)(現在の広島県東部および岡山県一部)福山城と区別するため、「松前城」と呼ばれるようになったそうです。


 ということで、知られざる極北の藩、松前藩についてでした。

 余談ですが、北海道出身者は、大半が明治以降に開拓で入ってきた、元・東北や元・北陸出身者の末裔なので、松前の血筋を引いている人は、本当の意味での殿様の末裔になります。

 なお、南側では対馬《つしま》にも藩があり、琉球も明治の初めに琉球藩というのが置かれています。

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