第40回 日本戦車史
突然ですが、私はアニメ「ガールズ&パンツァー」(ガルパン)が好きです。本編含め、劇場版もOVAもそれこそ何十回も飽きるほど見ました。
非常によく出来たアニメですが、その中でもアヒルさんチーム(バレー部チーム)が使っているのが、八九式中戦車。
では、日本において、この戦車の役割と歴史はどうだったか、が今回のテーマ。
戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、1915年(大正4年)時点で国内自動車保有台数がわずか897台というありさまでしたが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車には早くから注目していたそうです。
第一次世界大戦の激戦として知られる、ソンムの戦いの翌年、1917年(大正6年)には帝国陸軍が調達に動き出しています。さらに翌年の1918年(大正7年)中旬、ヨーロッパに派遣されていた筑紫熊七陸軍中将が、観戦武官として連合国の「タンク」を視察しています。10月17日、ヨーロッパに滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によって同盟国だったイギリスから購入されたMk.IV 雌型 戦車1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに神戸港に入港しています。
翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設され、以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車(フランス製)とマーク A ホイペット中戦車(イギリス製)を試験的に購入して、研究しています。
当時、まだ「戦車」という用語すらなかった時代ですが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったそうです。
当時(大正後期)の日本経済の不況や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたものの、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始されることとなります。
戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた大阪砲兵工廠で行われることとなり、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーばね式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われたそうです。
それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与しています。そして、設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で1927年(昭和2年)2月には試製1号戦車をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められます。
試製一号戦車の試験結果をもとに、約10t以内の軽戦車と約20t以内の重戦車の2種類の戦車を開発し配備を行うという方針を取ると、まず手始めに戦車隊の主力となる八九式軽戦車を開発し、部隊配備のための生産を行っています。
大正末期から昭和初期においては、アメリカとの戦争を想定し、グアムやフィリピンなどの酷暑地域で運用する想定でしたが、満州事変が勃発すると、ソ連と国境を接することになったため、以降は昭和18年半ばまでソ連を主敵とし、対ソ戦を想定するようになります。
その後、中華民国との戦いに追われ、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産されたのですが、早い話が、リソース不足の日本軍では、航空機と艦船にリソースを回すしかなかったので、戦車開発は陳腐化していった、とうことです。
以上のことは、Wikipediaを見れば大体載ってます。
では、長くなりましたが、本題。
日本の戦車はどのくらい強かったか?
結論から先に言うと、「弱かった」が正しいです。八九式を例に挙げます。
本機は、そもそも溶接技術の発達していない時期の開発だったため、装甲板はフレームにリベットで接合されていましたが、リベット接合の場合、リベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内を跳ね回って乗員を傷つける危険性が高かったのです。
装甲厚は、車体前面が17mm、車体側面上部と車体後面が12~15mm、車体側面下部が12mm+増加装甲3mm、車体下面が5mm、車体上面が10mm、砲塔周囲が17mm、砲塔上面が10mmと言ったところですが。
日本陸軍は、戦車に対する各種榴弾砲および野砲による榴弾の威力を確かめる試験を行い、本車両に対し射撃を行ったのですが。その結果、九六式十五糎榴弾砲(九二式榴弾を使用)の場合、直撃弾であれば致命的な効力を及ぼし、至近弾であれば80cm以内で炸裂した場合、相当な効力があることがわかりました。
そのほかの火砲では、九一式十糎榴弾砲(尖鋭弾を使用)の場合は、直撃弾であれば致命的な効力を与え、至近弾ならば30㎝以内に着弾炸裂すれば効力があったとわかりました。また九〇式野砲は命中弾でなければあまり効果がなく、命中しても強度の低い箇所にしか効果がないとしています。
実戦では、八九式中戦車の被弾記録によると、7.92mm徹甲実包(7.7mm徹甲実包や、7.92mm普通実包以上に威力がある)を、射距離30m〜70mから複数被弾した事例が記載されています。
まあ、早い話が、機動性はそこそこあった(最高速度25キロ)んですが、攻撃力、防御力共に、ノモンハン事件や太平洋戦争では、力不足を露呈。
アメリカのM4中戦車に比べても、全然歯が立たなかったと言われています。
これには色々な理由がありますが、元々、大陸のような広大な土地を持たない日本では、陸上での戦闘よりも、海上や空での戦いを主眼としていた、という理由もあるようです。
その後、九五式軽戦車 、九七式中戦車、三式中戦車などが造られるも、M4中戦車どころか、その前のM3中戦車にも適わないほどの劣勢。
大戦末期に試作された、五式中戦車でやっと、ドイツのティーガーⅠと同程度と言われるほど、日本の戦車は全体的に弱かったのです。
戦後、自衛隊によってようやくまともな戦車が造られるようになり、10式戦車は、世界基準的に見ても、かなり優秀な部類に入るようです。
10式戦車は、自衛隊のC4Iシステムにより、高度な情報をリアルタイムで受信できるようになり、自衛隊員の間では「走るコンピューター」と呼ばれているそうです。
現在、10式戦車は、陸上自衛隊富士学校の富士教導団の機甲教導連隊 、北部方面隊の第2、第7師団(共に北海道)、西部方面隊の西部方面戦車隊(大分県)に配備されています。




