第38回 戦国スーパー爺さん伝説
現代日本は、世界有数の「長寿国」として知られており、現代医療により平均寿命がどんどん延びてます。
が、戦国時代当時。もちろん今のように医療が発達しておらず、平均寿命は50歳程度と言われていました。
有名な織田信長が好きだった「敦盛」の舞でも、「人間五十年」と言っています。
しかし、そんな中でも長寿で有名な武将がいました。
有名なのは、徳川家康。当時75歳まで生きるというのは、相当な長寿。
他にも毛利元就や伊達政宗も長寿でしたが。
さらにもっとすごい武将がいました。
今回は、そんなスーパーご長寿さんの話。
①龍造寺家兼(1454~1546)
肥前国(現在の佐賀県)の大名、龍造寺隆信の曽祖父として知られる人物。享禄3年(1530年)に起こった、田手畷の戦いで活躍してますが、その時、すでに家兼は76歳。
その後、剃髪して「剛忠」と名乗りますが、天文14年(1545年)、家兼が少弐資元を積極的に救援しなかったことを謀反による主君殺しと見て義憤を発した少弐氏の家臣・馬場頼周の策謀によって、家兼の2人の息子と4人の孫が誅殺されます。
家兼こと剛忠は辛うじて筑後国(現在の福岡県)に逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛の保護を受けますが、剛忠はこの時、すでに90歳を超えた高齢だったため、厳しい追及を受けずに生き延びたそうです。
天文14年(1546年)、蒲池氏の支援を受けた剛忠は老体を押して再起のために挙兵。鍋島清房らがこれに呼応し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興。そして曾孫の胤信(のちの龍造寺隆信)を還俗(僧籍にある者を俗人に戻すこと)させ、後事を託すと、間もなく死去しています。享年92歳。彼の死後、曾孫の隆信はその勢力を広げ龍造寺家の最盛期を築くことになります。
②大島光義(1508~1604)
美濃国関大島(現在の大垣市)の出身と言われています。
永正12年(1512年)に父・光宗(光時)が山県合戦で多くの家臣と共に討死し、幼少にして孤児となりますが、縁者に育てられ、13歳の時に美濃国人との戦闘で敵を弓矢で仕留めたそうです。
その後、織田信長に召し出され、弓足軽頭(弓大将)となり、元亀元年(1570年)、姉川の戦いで戦功を挙げます。
織田信長は、大島光義の働きを「白雲をうがつような働き」と絶賛。信長の命により通称を雲八と改めますが、この時、光義はすでに60歳。
戦国の世ならとっくに死んでもおかしくない高齢です。
さらに、すごいのが慶長5年(1600年)、嫡男・光成とともに93歳にして、会津征伐に従軍し、さらに関ヶ原の戦いに参加。
結局、生涯53度の合戦に臨み、41通の感状を得たと伝わり、慶長9年(1604年)、97歳の長寿をもって死去したとされています。
③一栗放牛(1500~1591)
放牛は、出家後の名前(法名)らしく、実は本名すら不明。孫に一栗高春という武将がいます。
東北の大崎氏の家臣で、若い頃の経歴はほぼ不明。
ただ、天正18年(1590年)、葛西・大崎一揆が起こると孫の高春と共に一揆方につきます。しかし、一族郎党と共に佐沼城に籠城して奮戦するも衆寡敵せず、やがて敗色が濃厚となるや高春を落ち延びさせて自身は城を枕に討ち死にしたとされています。このとき92歳であったと言われており、「92歳で討死」というのがものすごくインパクトがある武将として、マニアの間では知られています。
今回は、「武」にこだわった長寿武将を挙げましたが、上記の他にも、長寿の武将はたくさんいます。
以下、割と有名な武将名と享年、簡単な紹介を挙げます。
丸目長恵(90歳) 九州の剣豪
志道広良(91歳) 毛利元就の家臣
松平忠輝(92歳) 徳川家康の6男。流刑されてから長生き
北条幻庵(97歳) 北条早雲の末子
※南光坊天海(108歳) 天台宗の僧侶
※永田徳本(118歳) 医者
最後の※の二人は、ほとんど眉唾物な享年なので、信ぴょう性は薄いですが。
第一、108歳とか118歳って何だよ? っていう年齢ですし。
南光坊天海は、明智光秀が生き延びた姿、という説もありますね。
ということで、今回はご長寿武将紹介でした。
中国の三国志にも黄忠という有名な老将がいますが、まさに「老いてますます盛ん」というか、戦国時代の武将は、ある意味、とんでもないです。