77話 呪われた侯爵夫人
「何事だ……?」
部屋の外の方から聞こえて来る、誰かが言い争うような声や、ばたばたとした喧騒にロスマリネ侯爵が眉を顰めた。
「失礼、様子を見て来ます」
シリルがそう言い、扉の方へ向かおうとしたとき。
――ばん!
書斎の扉が乱暴に開かれた。
悪魔のような形相の夫人が、髪を振り乱して現れた。
「ふぎゃんっ!」
吃驚仰天したファウスタは変な声で叫び、逃げるように飛び退った。
一瞬、悪魔が飛び込んで来たように見えた。
その夫人は禍々しい黒いモヤを纏っていた。
夫人の体に巻き付いた黒いモヤは何匹もの黒い大蛇のようにうねっていた。
黒いモヤの大蛇には目も口もないが、おぞましい巨大な悪意のようなものを発している。
ファウスタにはそれが人間と蛇が合体した異形の悪魔の姿に見えた。
夫人の顔はやつれて青ざめ、弱々しい病人のような姿だったが、目ばかりが異様にギラギラとしていてる。
夫人の恐ろしい姿に、心臓が口から飛び出すほど吃驚して、飛ぶように後退ったファウスタはひっくり返りそうになったが、目に見えないクッションのようなもので支えられて転ばずに済んだ。
ファウスタの体はエーテルに支えられて浮き上がったのだが、夫人に気を取られている皆は気付かないようだった。
ミラーカがすっと進み出てファウスタの体を手で支えるふりをした。
「勝手な事をしないでくださいませ!」
黒いモヤを纏った夫人はロスマリネ侯爵に向かって叫んだ。
夫人から生えている何匹もの黒いモヤの大蛇たちは、のろのろと鎌首をもたげるようにしてロスマリネ侯爵に攻撃の姿勢をとっているように見えた。
眼帯の幽霊デュランがすうっと前に出て、剣を振るい、伸びた黒い大蛇の首を刈り取る。
黒いモヤの大蛇は、剣で切れられると少し怯むように見えた。
だが元がモヤモヤなので、切れて消える部分もあるが、再びくっついたり伸びたりして元の形に戻って行く。
「母上!」
「シンシア! どうしたんだ!」
「貴方こそ! これは一体どういう事ですか!」
夫人はヒステリックな声でロスマリネ侯爵に言い返した。
開け放たれた扉の外ではメイドや従僕たちがおろおろとしている。
「片付けをやめさせてくださいませ! 元に戻して!」
「落ち着きなさい! 客人の前だ!」
髪を振り乱し半狂乱の夫人はロスマリネ侯爵に食って掛かるように突き進み、侯爵と夫人はもみ合うような形になった。
ふいに、夫人の目が虚ろになり動きがぴたっと静止した。
夫人は天を仰ぐかのような姿勢になり、ガクンと後ろに崩れ落ちた。
「シンシア!」
いつの間にかそこに居たルパートが、すかさず倒れる夫人を後ろから支えた。
ルパートは夫人をそのまま抱えあげると、ソファに運んで寝かせた。
ソファに寝かされ気を失ってぐったりとしている夫人の上で、黒い大蛇たちが鎌首をもたげうねうねと動いている。
「すまない。見苦しいところを見せた」
ロスマリネ侯爵はマークウッド辺境伯一行に謝罪すると、扉の外に居る使用人たちを振り返った。
「お前たち、シンシアを寝室へ」
「はい」
命じられて使用人たちが書斎に入って来る。
「あの! すみません!」
ミラーカに立たせてもらい、少し落ち着きを取り戻したファウスタは声を上げた。
「そのお方は、呪われています!」
「……何だって?」
ロスマリネ侯爵が吃驚したようにファウスタを見た。
シリルも目を見張る。
「黒いモヤモヤがたくさん憑いてます!」
ファウスタの言葉にオクタヴィアが鋭く目を光らせる。
「黒いモヤって、私の部屋にあったモヤと同じかしら?!」
「はい。呪いの人形が出していた黒いモヤと同じモヤモヤです。おじさんが剣で戦ったけれど切れなくて、それで今も蛇みたいに……」
状況を説明するファウスタの視界の隅で、何かが動いた。
ファウスタは反射的にその動くものを視た。
(御姫様!)
ロスマリネ侯爵邸に到着するなり、勝手に屋敷の奥へ入って行ってしまっていた幽霊の御姫様が、天井からすうっと現れてファウスタの視界に入ったのだった。
御姫様は夫人が寝かされてるソファの近くの空中に着地すると、両手を軽く広げて何かを呟き始めた。
周囲に風が巻き起こっているかのように、御姫様のヴェールや髪が舞い上がる。
「御姫様が呪文を唱えています!」
「呪文だとっ! 魔法陣かねっ?!」
「……っ!」
御姫様が呪文で起こした騒動を知るマークウッド辺境伯は声を上げ、オクタヴィアは叫び声を押し殺すかのように両手で口元を覆った。
「魔法が来ますっ!」
目の前にみるみる魔法陣が描かれていく様を視てファウスタは叫んだ。
ファウスタの声に吸血鬼たちは軽く緊張した面持ちで素早く目配せし合う。
ファウスタはふわっと微かな風のようなものに包まれた感触を覚えた。
ソファに寝かされた夫人の周りに、あっという間に魔法陣が描かれ、ぱあっと白色に発光する。
――次の瞬間、轟音が鳴り響いた。
たくさんの枯れ木が一斉に弾けるような大きな音が降って来た。
「きゃあっ!」
「……っ!」
メイドたちが悲鳴を上げた。
鳴り響いた音に皆が驚き、身を縮めた。




