第十話
沢辺氏が置いた万年筆のその音に、
俺は弾かれる様にして視線を上げる。
沢辺氏も同じく視線を上げている、
自然、目が合う。
それを待っていたかのように、
沢辺氏はゆっくりとした口調で話し始めた。
しかしその様子は、
これまでのオドオドした感じからは想像出来ないほどに、
妙なまでに落ち着き、そして饒舌であった。
「先日、私がこういう絵を描いているのを見た人が、
『頭の中に、こんなのが住んでるんじゃないのか?』
と、冗談交じりに聞いてきたことがありましてね…」
そう言って絵に、右手の人差し指、中指を添えると、
それをツイと前に押し出した。
もちろんそれは、俺に絵をよく見せるためだ。
俺は目を細めるようにして、その絵を見る。
わずか5センチ四方の小さな紙の中いっぱいに、
黒一色でその絵は描かれていた。
しかし、具体的に何の絵かと聞かれれば答えに窮する。
俺は絵だけでなく、
とりわけ芸術というものに対して全く素養がないので、
正しくはどう言っていいのかはわからない。
だが、おそらくこれは『抽象画』とでも言えばいいのだろうか。
その非具象ぶりから、
悪く言えば『子供の描いた絵』とも言えなくもない。
だが、沢辺氏はもちろん子供ではないので、
そう言ってしまうのは失礼だ。
だから抽象画だ。
そのメモ用紙には、
『人間』と思しき絵が、抽象画が、
紙いっぱいに描かれていたのだ。
「はあ…、これは『人』ですかな…」
さすが抽象画とでも言うべきか、
そこに描かれている人の手や足の長さは全てバラバラ。
しかもそれだけでなく、顔も体に対して異様に大きく、
いわゆる3頭身という感じである。
抽象画。
しかし、しばらくその絵を見つめている内に、
俺は何だがそれを抽象画というのがおこがましい感じがしてきた。
そう、これはどう見ても、
ただの『子供の落書き』に過ぎないのじゃないのか、と。
そうでなければ、絵心の全くない大人が、
いきなり『人間』を描いてみて、と言われて、
咄嗟に描いた拙い絵にしか見えない。
俺はこんなくだらない絵を見せられて、
徐々にではあるが、何だか腹の立つ思いがしてきた。
絵が動くとか何とかもったいぶった事を言っておきながら、
結局は、それらは全てただの与太話で、
挙句にはこれもまたただの落書きを見せられているだけじゃないか、と。
そう、俺はただ『からかわれている』だけなのだ、と。
丁重にお断りをして…、だとか何とか、
そう考えていた俺が何だかバカらしく思えてきた。
絵から顔を上げた俺の顔には、
おそらくそういった心の憤怒とでも言うようなものが、
多少は滲み出ていたに違いない。
しかし、当の沢辺氏は、
その俺の気持ちを知ってか知らでか、
俺の顔を見て見ぬふりをするように、淡々と話を続ける。
「そう、おっしゃる通り『人』です、しかも『男』です。
そして、さらに言うなら…、先ほどの『住んでるんじゃないか?』、
という質問の答えにもなるんですけど…、
実はここだけの話…、本当は住んでるんですよ、ここに…」
そう言って、
右手人差し指をこめかみの辺りに持っていき、
トントンと叩いてみせる。
顔には何とも言えない微笑を湛えながら。
俺は何だか『一気に酔いが覚めた』という、
そういう感覚に襲われた。
心の中にポツポツと沸き起こり始めていた怒りの感情が、
一気に消し飛んだ感じがした。
代わりに、何か得体の知れない冷たいものが、
どどっと心の中になだれ込んで来る。
俺は沢辺氏にもわかるくらいに身震いしてしまった。
だが、沢辺氏はそんな俺の様子を気にするでもなく、
さらに話を続ける。
「何故わかるのかって?そりゃわかりますよ。
いつもこういう絵を描く時はね、自然とペンが進むんです」
そう言いながら、
テーブルに置いていた万年筆を取り上げ、
それを愛おしむかのように右手の上で転がす。
「これってきっと、やつが私に描かせてるんですよ。
ええ、そうなんです。手が独りでに動くんです。
今もほら、こうやって…」
そう言うと今度は、
転がしていた万年筆を強く握り締めたかと思うと、
コンッ…!
そのまま、その絵に突き立てる。
まだ、ペンの持ち方を知らない子供がそうするかのように、
胴体を平手で握り締めたその状態のままで、
絵に突き立てたペン先をグリグリと動かしてみせる。
「ねっ、そうでしょ。この通りなんです…」
沢辺氏はそう言うと、
しばらくは操られるかのようにして右手を動かしていたが、
突如右手をパッと開き、その万年筆を離すと、
まるで何かから開放されたかのように、
そのままガクリとうな垂れてしまった。
コトンッ…!、コロコロコロ……、
倒れた衝撃でキャップが外れたその万年筆は、
その胴体が円柱であるが為に、よく転がった。
やがて、
カタタンッ…!
テーブルから転げ落ちると、
硬く乾いた音を、
静まり返っていたこの部屋中に響かせた。
テーブル上には、
その絵と、万年筆のキャップだけが残されている。
俺はそのキャップの刻印から、
ようやくメーカー名は「ウォーターマン」であることがわかった。
だが、その頃には、
最早メーカーがどこだろうと、もうどうでもよくなっていた。
なぜなら俺の視線、そして思考は、
ただ、その絵、『男の絵』に、釘付けとなっていたからだ―。




