砂の花びら
栞如→二十歳
千→十五歳
エピソードタイトルは無視でお願いします。
「殿下、本日の朝議でのご発言、誠に素晴らしゅうございました」
さすがは天下に聖帝と名高い我らが陛下の御子、と幾度も満足げに頷く老宰相を気にすることなく、千は黙って回廊を下る。今、彼は別のことで頭がいっぱいだった。
返答しない皇太子に痺れを切らしたらしく、後ろでひとり話していた宰相が突如千の前に躍り出た。
「子治さま。わたしの話を聴いておられますかな」
「…ああ、聴いている」
「では、わたしが今し方語った話の内容をお聞かせ願いましょうか」
暫くの沈黙の後、千は溜息と共に大人しく降参の白旗を掲げた。
「――済まない、宰相。一体何の話だっただろうか」
「やはり、馬耳東風でしたな。貴方様の御正室の件についてですよ」
「…」
あからさまに柳眉を顰める千に、宰相たる老人は聞き分けのない孫を諭すように言う。
「年が明ければ貴方様ももう十六……妾妃を迎えるには適当過ぎる時期でございます。
今の貴方様の歳の頃、陛下は当時の御正妃を含め、既に三名の妾妃方をお持ちであられた。後宮は華やぎ、夫人方が各々その妍を競っておられました。しかし、貴方様には未だ愛妾のおひとりもおられない。
わたしも含め、重臣どもは皆、一同に不審がっております」
「…わたしが竜陽主義【⋆1】か、もしくは男としての機能がないとでも思っているのか」
「左様でございます」
変に取り繕って言葉を濁すことなく、ズケズケと肯定する相手に、千は僅かに苦笑する。
彼の指摘も尤もなことではあるのだ。殊、千のように世継ぎたる男児がひとりのみの場合は。
「そのようなことは万にひとつもないから安心しろ。わたしは女が好きだ」
「それでは何故、妃のおひとりもお迎えなされませぬ」
途端に、千の表情が一変した。
秀麗な顔貌に抑え切れない激情が宿る。
「――お前がそれを訊くのか、宰相。わたしのこの積年の想いを知るお前が!」
歳若い太子が苛立ちも顕わに吐き捨てた叫びに、老練にして聡明な老宰相は口を噤んだ。
今から約七年前――彼が未だ左相の位にあった頃幾度となく耳にした、幼き皇太子の従姉を求めるあの悲痛な叫び声は、今現在も尚消えることなく両の耳にこびり付いている。
「……では、殿下は、彼の従姉姫のことを、まだ…」
「…そういうことだ。この件に関してこれ以上の詮議は無用。判ったらそこを退け」
己の前に立ち塞がったままの小柄な躰を押し退け、千は今度こそその場を去った。
「ねえ栞如、この方などどうかしら。近頃なかなかの評判の貴公子よ」
「母上……あの……」
「ああ、この方もどう? 右相殿の甥御君だとか」
「母上!」
堪らず声を荒げると、今まで滞りなく一方的に喋り続けていた母は漸く言葉を切った。
軽く溜息を吐き、栞如は辟易を隠さず顔を顰めてみせる。
「母上、前にも言ったでしょう。わたしはどのような縁談もお受けする気はありません」
「でも、ねえ…」
困ったように頚を傾げる母は、もう齢四十を数えたであろうに、未だあどけない少女のようにふわふわと頼りなげで夢見がちだ。
母は今から二十年前、二十の時、文官だった父に出会い、二十一で栞如を産んだ。
夫を亡くしてからは、異母兄たる皇帝の篤い庇護の下、嫁ぐ前――まだ公主であった頃のように、王宮での自由な暮らしの中、栞如を育てた。否、育てたというよりも、共に姉妹の如く過ごしたという方が正しいだろう。
幾つになっても少女のように幼い母は、事ある毎に一人娘の栞如を頼った。
栞如が女ながらに勉学に励んだのも、自身の興味とは又別に、自分が母を支え、何者からも護らなければという不動の意志に端を発したものでもあった。
五年前、勉学絡みの大失態から一時論壇と世間を追われた栞如であったが、厳格な皇帝が珍しく直々に手元に置き、可愛がっている異母妹姫の娘ということもあって、出世狙いで持ち込まれる縁談話は意外にも多かった。
人伝いに六十を過ぎた下級の老官吏から、彼の後妻として求婚されていることを知った時には、余りの己の零落れように、怒りや呆れを通り越して思わず失笑してしまった。
所詮、自分はその程度の人間なのだ。
求婚者らが欲しているのは、栞如というひとりの生身の娘ではない。己の出世の為、『皇帝お気に入りの妹君の娘』という肩書きを有する駒が欲しいだけだ。その中に、栞如の個性や性格といった個人としての部分は一切含まれておらず、そんなものは単なる影に過ぎない。
どうあっても身を固めねばならないというならば、せめて本心から自分を思ってくれる相手と添いたい――そう考える栞如にとり、自分本位なことしか考えていない男など、罷り間違っても夫として受け入れられる筈がない。ましてや互いの顔も判らぬ縁談など以ての外だ。結婚話が聞いて呆れる。
しかし、そんな栞如の心を知らず、母は諦めずに粘り強く見合い話を勧めてくる。
「一度だけで良いから、どなたか、お会いしてみない?」
母親というものは皆、一様に娘の婚姻を急ぐものらしい。だが、その手の話は、今の栞如にとってはただただ鬱陶しいだけだ。
ガタンと椅子から立ち上がり、自分のそれより僅かに低い位置にある母の肩を掴む。
「くどいですね。嫌だと言ったら嫌です。全て丁重にお断り下さい。では」
「栞如! お待ちなさい! 栞…」
言い募る母の小柄な躰を房室の外に締め出し、栞如は思い切り戸を閉めた。
暫く母の怒り声と戸を叩く拳の音が響いていたが、やがて遠ざかる足音と共に消えた。
栞如は押さえていた両戸からゆっくりと手を離し、それを背にずるずると座り込む。
ここ最近、ほぼ毎日このような遣り取りが続いている。このままでは本当に精神病になってしまいそうだ。
母との攻防は、決して太くはない栞如の神経を確実に磨り減らしていた。
「疲れた…」
自分でも気付かぬ内にぽつりとそう漏らした時、不意に背の支えがなくなった。
戸が開いたのだと理解すると同時に、ほっそりとした少年の腕に抱き留められる。
「…千」
しゃがみ込んだ形で栞如の躰を支えたのは、従弟にして皇太子の千だった。
「大丈夫か、栞如? 随分やつれた顔をしている」
こちらを真っ直ぐに覗き込む眼から視線を逸らし、栞如は彼に凭れていた躰を離した。
彼の涼しく整った面を見る度に、栞如は己のあの恥ずべき失態を思い出し、同時に行き場のない激しい苛立ちと悔しさとが込み上げてくるのだ。
あの時、千はまだ十を数えたばかりの子どもで、いかに神童と雖も、己の言動が栞如の今後の評価にどれ程の影響を与えることになるのかなど、そのような入り組んだことにまで意識が回らなかったのは当然のことだ。となると、一様に彼を責めることは出来ないというのが一般論だろう。
だが、自分の経験した周囲の批判や罵倒を思い浮かべれば、そんなことは到底納得がいかなかった。いかに幼かったとはいえ、千は責められても仕方のないことをしたのだ。
母や近しい人々から、口々に『もう五年も前の出来事だ』と千への蟠りを消すよう求められる都度、何故許してやらなければならないのか、という大声が幾度口を突いて出そうになったことか。
簡単に「はい、そうですね」と割り切れる程に、自分はまだ精神的に大人に成り切れていないのに。
それでも、千を激しく憎む一方で、幼い頃から彼と実の姉弟の如く過ごしてきたが故に、結局は最後まで嫌い抜くことが出来ないことも又、疑いようのない事実だ。
だからこそ、栞如は千と対峙する時、己の内深く巣食う暗く醜い感情を隠さんが為に、彼に対してわざと突き放すような態度を取る。そうするようになって、もう何年経つのか。
「お前には関係のないことだ。放って置いてくれ」
フラと立ち上がり、素っ気なく追い払おうとすると、いつもの如く千が喰い下がってきた。
「関係ないことはないだろう。わたしには栞如を心配する資格もないのか?」
僅かに男らしく骨張りつつある千の指が、逃げる栞如の手首を掴む。
その指を以前のように振り解けなくなってきたのは、体格的にも膂力的にも栞如が千に追い抜かれ始めたからだ。五つの歳の差も、男女の構造上の体格差の前には無きに等しい。
そんな、人間として当然の瑣末な身体差でさえ、今の栞如には限りなく疎ましい。
「わたしに関してお前が気を配るようなことは何もない。……離せ」
一瞬、千は激昂したようにカッと眼を見開いたが、彼は苛立ったように短く歯軋りした後、栞如を拘束していた手を乱雑に離し、黙って出て行った。
痛い程の束縛から漸く解放された栞如の手首には、まるで逃れられない枷のように、強く握り締めた千の指の跡が赤くくっきりと残されていた。
その跡を見て、栞如は自分が一生千の呪縛に囚われたままになってしまうのではないかという不安に――その何か得体の知れない漠然とした恐ろしさに、愕然と青褪めた。
雀のように喧しく囁き合う女官たちの噂話によると、今朝の朝廷で千の妃問題が議題として挙げられたらしい。
確かに、既に元服を終えた一国の皇太子たる者に妃のひとりもいないのは不自然だ。
これまでの歴史の中では、生まれ落ちたその時に妃を定められた皇帝さえ存在するのに。
譬え今までの歴代皇帝全てがそうではなかったにせよ、千の場合は異例中の異例と言っても差し支えないだろう。御前会議の議題として扱われて当然のことだ。
一部の官吏の間では、千が男色や性的不能なのではないか、などという莫迦げた低俗な噂が実しやかに語られているようだが、それは間違いなく誤りであると断言出来る。
栞如の知る限り、一夜限りでも千の夜伽を務めたという宮女は確かに存在しているし、千自身、今までに幾度かそのような内容に類する話を語っているから、まず間違いないだろう。
では、次の疑問として、何故彼は正式に女性を妃として後宮に娶ろうとしないのか。
今までの閨の相手の身分が皆一様に低く、側室としての立后すら極めて難しい者ばかりだったということもあるが、だからといって、今までに幾度か持ち上がった、正妃として充分に擁立可能な姫君との婚姻話にも、彼は全て頑として頚を縦に振ろうとはしなかった。
―― 千も、自分と同じように生涯独り身を貫こうとでも考えているのだろうか。
だが、もし仮にそうであったとしても、現在のところ帝国唯一の正統な後継者たる千には、どだい無理な話だ。
故に、早々に諦め、相応の身分の姫との間にさっさと世継ぎを儲けるべきだ。その方が民も安心するし、何より皇室も一先ずは安泰なのだ。これ程喜ばしいことはない。
そんなこともあって、この日の午後、栞如は伯父たる皇帝自ら直々に勅を賜った。
「栞如よ、どうか太子を説得してはくれまいか。
あれは朕の言う事は一向に聴かんが、お主の言葉であれば素直に聴き入れよう」
「…買い被りが過ぎます、陛下」
あの千が、自分如きの言葉に素直に応じるものか。
栞如はそう硬く信じて疑わなかったが、畏れ多くも天下をしろしめす皇帝の命である。この国の人間である以上、何人たりともその誓詞を受け入れぬ訳にはいかぬ。
「承知致しました。では、この微力を尽くし、太子殿下を説得してみます」
片膝を突いて頭を垂れる姪姫に、厳格なる皇帝は小さく、しかし深く息を吐いた。
その竜顔には何か深い意図や様々な感情が含まれていたような気がしたが、顔を伏せていた栞如にはそれが一体何であるのかは判らなかった。
――数日後。
無数の本が散乱する部屋の中、栞如は窮地に陥っていた。
眼の前にある千の無表情な美貌には、未だ嘗て見たことのない程激しい怒気が浮かんでいる。その怒りの念は、どういう訳か真っ直ぐに己に向けられていた。
鋭く射竦められて動けない栞如は、あっという間に壁際に追い詰められた。
顔を挟むように壁に突かれた少年の両腕が、まるで牢獄の鉄柵のように思えてくる。
こちらを見下ろす漆黒の双眸が放つ眼光の激しさに、恐ろしくて顔を上げられない。
「――何故、そんなことを言う?」
ややあって頭上から聞こえてきた声音に、栞如は訳が判らなくなった。
そんなこと? 一体何のことだろう。
怯えながらもそっと伏せていた顔を上げると、意外に卑近にあった千の燃えるような黒曜石の眸と視線がもろにぶつかってしまった。
どこか粘着質な熱さを帯びたその混沌のような眼に、栞如は大きく身震いした。
怖い――怖い! この少年は誰? 何故こんなにも激しい眼でこちらを見つめてくる?
今眼の前にいるのは、最早弟の如く無邪気に栞如を慕ってきた幼い少年ではなかった。
「何、を…」
戦慄く栞如の怯え切った様子に整った口元を歪め、千がその耳元で低く囁く。
「…これは、父上の命令? それとも、栞如自身の願い?」
この時になって、栞如は千が何のことを話しているのか漸く得心がいった。
恐らく、千がこの部屋に入って来た際に忠告した、正妃側妾の話のことだろう。
だとしても、何故こうやって責められなければならないのだろうか。
「…どちらでもいいだろう、そんなことは」
「――そんなこと?」
一際鋭利さを増した千の声に、栞如は更に躰を硬く強張らせる。
クツクツと小刻みに嗤いながら、両手を壁に突いたまま、千は栞如の右肩に額を寄せた。
その力の抜けたような反応に栞如は酷く困惑し、同時にあの訳の判らない緊張から一気に解放された。
一頻り喉を震わせていた千は両腕を回し、まるで甘える子どものように栞如にしがみ付いた。
「…千?」
己の胸元に顔を埋める千に恐る恐る呼び掛けると、唸るような篭もった声が聞こえた。
「お前にとってわたしの婚姻は、歯牙にも掛からない程度の瑣事に過ぎないのか…」
「え? 何だって? よく聞こえない」
「…なんでもない」
どこか落胆したような呟きと共に、千は顔を上げ、栞如の双眸を下から覗き込む。
その端正な容貌には、諦めと哀しみとが綯い交ぜになったような複雑な感情が浮かんでいるだけで、先程までのどこか異様な熱を秘めた激しい感情は綺麗に雲散霧消していた。
「――譬え栞如の頼みでも、こればっかりは聞けない。
父上や宰相たちには悪いが、今はまだ、后妃を迎えるつもりはないのだ」
「…そうか」
先程あんなにも激しく怒ったのは、周囲に続いて栞如にまで勧められた憤りの反動だったのかもしれない。
ひとり納得していると、ふとある疑問が浮かんだ。
「では、誰か好いた相手はいないのか? 身分立場は抜きにして、己が是非にも妃として迎えたいという姫は」
「……いるには、いる」
「なら、」
しかし、千は苦笑気味に首を横に振った。
「その姫は、わたしのことを避け、嫌っている。今のところ、到底正妃にはなってくれそうもない。
無理にごり押しして妃にすれば、絶対に生涯許しては貰えない。――わたしを、愛してはくれない」
「…お前に靡かない姫がいるのか」
皇太子というこれ以上ない貴い身分である上に、況してこれ程の美貌と才気に溢れた千なのに。
予想もしなかった事実に驚いている栞如の頬に、千の指が伸ばされる。
それは、既に栞如の後ろを無邪気に追い駆けていた可愛らしい少年の手ではなく、節くれ立ち、剣 胼胝の出来た逞しい大人の男のそれに変化していた。
「いつも怯えさせてしまう。ただ、わたしに微笑み掛けて欲しいだけなのに」
苦しげに細められる切れ長の双眸に、千がその姫のことを心の底から大切に想っていることがよく判った。彼はいつの間にか、体格だけでなく、精神的にも成長していたのだ。
姉に甘える弟に対するように、栞如は自分より背の高くなった従弟をそっと抱き締めた。
「千のその真摯な想い、いつか必ず彼の姫にも伝わる日がくる筈だ」
「…だといいんだが」
腕の中で小さく溜息を吐く千の本当の想いに、栞如は全く気付いていなかった。
「栞如…この世の誰よりも、お前を愛している」
己の腕の中で無防備に眠る従姉の薄く開いた唇に接吻し、千はうっとりと呟く。
愛しい、愛しい栞如。触れようとすれば、すぐに手から擦り抜けて逃げ出す臆病な従姉。
何者からも護り、大切に慈しみたいと思う反面、いっそのこと自分の手でめちゃくちゃに壊してしまおうかという、甘美で残酷な誘惑に幾度も揺さぶられる。
それでも、そんな男としての狂おしい程の激情を、僅かに残っているなけなしの理性で何とか抑え込み、千は栞如の望む愛らしく無邪気な弟を演じ続けてきた。
だが、それも後少しで終わりだ。
これから徐々に己を「男」と認識させ、その上で栞如の防御壁をひとつひとつ突破するのだ。
「あと、もう少し――」
わたし、千子治は栞如のものだ。
だから栞如、お前も早くわたしのものになれ。
それから五年後、皇太子千の正妃が正式に決定する。
妃の名は栞如。麗しの太子が幼い頃より恋い慕ってきた年上の従姉姫だった。
【⋆1】男色の意。衆道。




